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第三章 北極星(ポラリス)・24
「……わかった」
背後から伸びた腕が、すっかり脱力していた俺の身体をゆっくりと抱き寄せた。
「それ、ちゃんと光一郎に聞け。手紙の内容ことも、今の気持ちも。出来るな?」
俺の頭を抱え、優しく撫でながら釈七さんは諭す。
「もし、光一郎にとってお前が和宏の代わりだったとしても、お前にとっては光一郎は誰の代わりでもないだろ?さっき、俺は光一郎の代わりじゃないとお前ははっきり言ったな。逆に言えば、光一郎だって代わりになるような奴はいないはずだ。好き、なんだろ?」
好き、なんだと思う。
今まで自覚していなかった。というより、認めてはいけないと自分に言い聞かせていた。和の事、キルトさんの事、光を取り巻く誰かのことを考えるたび、流されてはいけないとどこかで制御していた。
俺は、和のように光を支えられない。キルトさんのように自信に満ちた自分を見せられない。傍にいて、甘えて、身体を許して、ほんの少し光の寂しさを紛らわせていただけだ。それだって、光にしてみればどれほどの効果があったかなんて知る由もない。それなのに一丁前に嫉妬心だけは起こして、しまい込んでいた思い出まで暴いてしまったのだ。
「だけど俺は、光を好きでいる資格なんて無い」
本心から、そう思った。
「その資格、誰が無いって決めたんだよ。光一郎に嫌いとか、お前の事は見限ったとでも言われたのか?もう一緒にいて欲しくないって言われたか?」
「違う、けど……」
仮に思っていたとしても、光はそんなこと決して口にはしないだろう。あいつはヘタレで……ヘタレだけど、どこまでも優しい。それこそ、紙一重。優しくて、臆病なのだ、己と同じで。
俺が勝手に盗み見たことより、自分の書いた恋文めいた手紙を悔いているからこそ、今になっても連れ帰りにここまで来られないのだ、きっと。
だから、俺から離れなきゃいけない。俺より相応しい相手がいるなら、尚のこと。
「でも、今日だってキルトさんが一緒にいて。キス、も……」
「キルト?あぁ、あの光一郎にくっついてた外国人がそうなのか。見た感じ、光一郎の方が無理矢理されてたみたいだったけどな?それなら、お前も俺にキスされただろ。お互い様、だな」
冗談めかして、釈七さんは笑った。
やはり、俺を慰めるためにしたキスだったのだろうか。俺が、身勝手に考えすぎているのだろうか。
光が『いい加減』ではないと書いていたキスは、和には伝わっていないかもしれないと釈七さんは言う。「傍にいろ」という言葉と共に受けたキスも、このひとの感覚は俺とは違うものだったのか。
なんだか、よくわからなくなった。
釈七さんは、俺をどう思っているのだろう。嫌いではない、にしても、それはバイトの後輩だからか。俺が彼を頼っているから、受け入れているだけなのか。
「聞けっつっても、お前がちゃんと光一郎に話せる、と整理が付いてからで良い。それまでは言った通り、いつまでここにいても構わないから」
釈七さんはずっと、俺を抱き締めて髪を撫で続けてくれている。これだって、どういう意味を含んでいるのかわからない。わからないが、彼がこうしてくれる間は縋っていたかった。温かく、心地良い熱に埋もれて。
「たくさん話して疲れただろ。もう休むか?」
「は、はい。あ、俺、今日はソファで良いです」
「いいのか?一人で」
悪戯っぽく、釈七さんが俺の鼻梁を突いた。
「は?」
「寂しいんだろ、お前。一緒に寝なくていいのか、って聞いてんだよ」
見抜かれていた。このひとには本当に、嘘が吐けない。
「でも、釈七さんがゆっくり寝られないと……」
「バカ、散々しておいて今頃遠慮してんな。いいよ、一緒に寝ようぜ?」
くすくす笑って、釈七さんは許諾した。
「ただし、俺に何されても文句言うなよ?」
「何、って?」
襲うとでも言うのだろうか。それこそこんな気軽さでは考えられない。首を傾げると、笑いを含めたまま釈七さんは「分かんねーならいいよ」と流した。
落ちないようにと俺を壁側に回してくれたが、にしても大の男が二人で寝るにはシングルベッドは少々狭い。背中合わせに潜り込んだが、場所を陣取りすぎてはいないかと気になって振り向いてみた。小さく丸めようとしていても尚、広く大きな背中が目の前にある。
バイクの後ろでも感じた、安心できる体温。その温もりを求めて寄りかかりたくなった。身を反転して、そ、っと額を預けてみる。
「寝づらくねぇか、その体勢」
背を向けたまま、釈七さんが言った。
「あ、釈七さんも、ですね。すみません」
離れようとしたら、不意に顔がこちらに向いた。
「くっついてて欲しいなら、そう言えって。俺だって……」
「え?」
「いや、何でもない。俺で気が紛れんなら、いくらでも抱き締めてやるから」
身体ごと向き直り、釈七さんは俺を抱え込む。この方が、転がり落ちる心配も少ない。
聞こえる鼓動が、眠気を誘う。包み込まれるような温度も。
このひとの、本当の気持ちはわからない。けれど、彼の体温はこの上なく安らぐ。
「すみません。ありがとうございます」
詫びも礼も、言いたかった。瞼が重くなり、意識がぼやけ始める。
深夜の来客を告げる呼び鈴の音は、眠りに落ちかけた俺には夢の中から聞こえたように感じた。
「ごめん、鞍。ちょっと」
体温が遠ざかる。どうやら夢ではなく現実だったようだ。ベッドから出た釈七さんは、玄関へ向かう。
急速に自分の身体が冷えた気がしたが、また目を閉じる。
釈七さんと誰かの会話する声は、ほんの数メートル先で交わされているのに、異空間でのものみたいに遠く聞こえた。内容は全く理解できないが、慣れ親しんだ、聞き覚えのある。
「……もう寝てる。あいつも色々頭使って疲れてんだよ。今日のところは帰れ」
「悪いけど、それでも起こしてきてよ。どうしても、連れて帰りたい」
「また泣かせてもいいのかよ?今日のアレだって。あんなの目撃して、今も鞍は混乱して……」
「だからだよ!今言わなきゃ、どんどん誤解が深まる」
あぁ、あれは光の声だ。
半身を起こす。迎えに来たのか、それとも引導を渡す気になったのか。どちらでも良い。なんだか、寒い。
「お前とちゃんと話すようには言ってある。だが時間も時間だ。出直せよ光一郎」
「いいから。釈君、そこ、どいて」
ベッドから下りる。フローリングの床が素足に冷たい。膝が少しだけ震えた。
頭が眠気でぼんやりする。部屋の照明は消してあったから、仕切扉の向こうから玄関先の灯りが漏れるのみだ。一歩踏み出し、誘蛾灯に吸い寄せられる虫のようにふらりと近づく。
「そこまで言うなら、なんでお前当日にすっ飛んで来なかったんだよ」
「それ、はっ!」
「あいつ、自分が和宏の代用なんじゃないかって言ってたぞ?お前、鞍にそんな事思わせて」
「っ?! そんなこと、一言も言ってないし、思ってない!!けど……鞍……?」
オレンジがかった室内灯の下、光の視線が暗がりから出て来た俺に注がれた。視界はまだぼやけている。相手の表情までは読み取れない。光の見ている先を釈七さんも追い、顔をこちらに向けた。
「鞍、お前……」
「釈七さん、俺、光と帰ります」
「大丈夫、なのか?怖かったら俺も一緒に行ってやるが」
「いえ。光も、二人だけの方が話しやすい、だろ?」
言いながらも、光の顔は見られない。
「うん、出来れば」と肯定する返事は聞こえたので、軽く頷いた。釈七さんを見る。焦点は合ってきたが、微妙に滲んでいた。安堵したような、それでいて不安そうな、複雑な表情だった。
この時に至るまで、このひとの気持ちは俺には分からない。ただ、直ぐに俺を起こして、光の来訪を告げなかったことがなぜだか嬉しかった。本来なら、即座にそうして然るべきなのに。そうして欲しかったと思うべきなのに。自分の気持ちも、いまだ把握できない。
「帰るなら、バイク使え。明日、カフェまで持ってきてくれればいいから」
釈七さんは俺の手を取って、靴箱横に掛けてあった鍵を握らせた。
「あぁ、そうだ」
そして一旦部屋へ戻ると、俺の上着を取ってきて、肩に羽織らせた。今日、「プレゼント」してくれた、あのウインドブレーカーだ。
「明日のバイト、待ってるからな?」
笑顔で言う釈七さんを見ていたら、抑えていた涙がこみ上げてきそうになった。光と向き合う怖さも、釈七さんに対する感謝もあったが、何か違う感情で。
「はい。ありがとう、ございました」
顔を見られたくなくて、深く深く、頭を下げた。
「ありがとね、釈君」
光の隣に並び、バイクの鍵を手渡す。ようやく、光を見上げた。悲しげに笑っていた。
「じゃ、行こうか、鞍」
手を背に回そうとしたのを、躊躇したらしい。上がった腕は、元の位置に戻った。
ドアの外は、暗い夜の闇。静かに閉じると、オレンジの灯りと共に釈七さんの姿が消えた。
光の一歩先を歩き、エレベーターに乗り込む。その間なにも言葉を交わさずに。青白い蛍光灯が照らす、小さな箱が下降する。
これでよかったのかどうか判断がつかない。微細な照明のちらつきが、鼓動と連動していた。
エントランスを出るまで、結局俺も光も、一言も発せなかった。
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