56 / 190
第三章 北極星(ポラリス)・25
◆◇◆
マンションの駐輪場まで来た時、光に抱き締められた。張り詰めていた弦が切れるような突然さで。
「ごめん、ごめんね、鞍。ほんとに……っ」
なぜ光が謝るのかわからない。謝らなきゃならないのは本当は俺の方なのに。身体が酷く冷たく感じる。いつもみたいに、押しのける気力も無く。
「とりあえず、家に行こう。ちゃんと、聞くから」
抑揚の無い声で言う。どうしてか、何の激情も感慨も湧かない。冷淡に聞こえたのか、身じろぎしたように光は俺の身体を離す。
「う、うん。俺もちゃんと話す。けど俺は、やっぱり鞍に傍にいて欲しい、から」
先にバイクに乗り込んだ光に続いて後ろに跨がり、背中に掴まる。釈七さんの背の感覚が残っているためか、光のそれがやけに小さく見えた。比較するつもりなどないが、筋肉量もやや少ない背中は、少し頼りなく思う。
……いや、そうじゃない。多分俺が、一方的に印象を変えてしまったためだ。
初夏にさしかかった季節は、夜になってもそれほど気温は下がらない。なのに身を切る風は、やたらと冷たい。肌寒さは拭えないが、光の体温を求める気にはまだなれない。僅かに身を遠ざけ、ヘルメットを被った頭だけを預けた。
宮城家に到着し、鍵を開け屋内に入っても、未だ無言のまま。
「ただいま」なんて無論言えない。照明を点け、リビングのソファに腰掛ける。
「なにか、飲む?」という光の申し出に首を振り、ひたすら自分の膝を見つめる。俺は、何も言い出せなかった。
「鞍」
光は直に床へ座り、テーブルの上へ一通の封書を滑らせた。俺が読んでしまった、あのエアメールだ。
「鞍は、これ、見たんだね?」
こくりと頷く。
「えぇと。まず、俺は見たこと、怒ってないからね?」
そうだろう、とは思っていた。どうせなら、怒って欲しかった。頭ごなしになぜ人の物を勝手に見たのかと、怒鳴りつけられていたらどんなに楽だっただろう。
「で、内容だけど。俺は昔は、和しか知らなかった。突如見知らぬ家族の一員になった俺に、懐いてくれた和だけが全てだったんだ。弟としてだけじゃなく、もっと重要な、もっと大切な存在だった。それは、認めるよ」
「…………」
もう一度、黙って頷く。最初から分かっていたことだ。初めてこの家を訪れた日から。
軽口を叩き合いながらも、互いを尊重する様子は決して崩さなかった兄弟。二人の間を繋ぐ「愛情」が、どういう形のものか俺には計り知れなかった。
だが、決して揺らがぬ信頼と絆。「恋愛感情」などと言うよりずっと深い、他人の立ち入る隙の無い関係。
今も昔も、光には和が必要だったのだ。必要だったのに、俺の存在がそれを壊した。俺は、和の代わりにもなれなければ、光の新たな支えにもなれない。
「だけど、今は俺には鞍がいる。和よりも、他の誰よりも鞍と一緒にいたいし、鞍が大切なんだよ」
果たして、本当にそうなのだろうか。
光の言葉が虚偽だと思うわけじゃない。けれど、光自身も勘違いをしているだけではないのか。出逢ったばかりの俺がはからずも、少しばかり境遇が似ていたから。共通した寂しさを抱えているように見える俺に、ほんの一時、目移りしてしまっただけではないか。
「鞍、だから……また一緒にいてくれないかな。俺の傍に」
「言いたいことはそれだけ?」
夢の続きのようで、どこか現実離れしている。自分の声は、とても平淡で。
「っ、愛してるんだ!俺は鞍がいないとこんなにも寂しくて不安で、辛いんだよ」
腰を浮かせた光は、ソファへ倒れ込むようにして、俺を抱き締めた。垂れ下がったままの己の指先は冷えきっている。
熱は、まだ、伝わらない。
「……キルトさんは?」
「え?」
意外なことを言われた、というような目で、光が俺を見た。
「キルトさんだよ。今日、一緒にいただろ?」
「……あぁ。帰ったけど?あいつ、別に俺に会いに来たわけじゃないよ。鞍を迎えに行こうと思ったら、偶然鉢合わせただけ」
「偶然?」
まさか。そんなはずはない。
彼がなにも考えず、なにも意図せずに桜街に立ち寄るなどありえない。仮に、この地でなんらかの仕事があって……例えば、宮城の母親の付き添いでやって来たとしても、この地に光や和が「所在している」ことは彼も重々承知している。まったく顔を合わせない、なんてことは考えないのが自然だ。
あの場所で遭遇したことは偶然だったとしても、この街を訪れた以上、キルトさんはどこかしらで光に会うつもりだったのはほぼ間違いない。そう言うと、光はもどかしそうに唇を噛んだ。
「だっ、だとしても!俺はキルトに会う気なんてなかったんだよ?!あいつがどう思っていても!」
光はなんで、こんなに悔しそうな顔をしているのだろう。もし、俺が離れたとしても、そんなに大仰なことではないと思うのに。
俺と「出逢わなかった」頃の光に戻るだけだ。和という大切な弟がいて、キルトさんという、光を慕う元の仲間がいて。
どんなに鬱陶しく感じても、光はキルトさんを嫌いにはなれない。当たり前だ。一時でも苦楽を共にした同志なのだから。ならば、改めて互いの理解を深めることだって可能なはずだ。
「なぁ。もし、キルトさんが本気で光を追ってきたらどうするんだ?俺がいるから、って跳ね返すのか?泣いて縋られても?」
「な……っ、当然だろ?!」
肩に回った腕に、力が加わった。指が食い込んで痛いほどだ。それでも、俺の感覚はどこか麻痺したようで。
「俺は!鞍だけを愛してるんだ!!鞍が一番なんだよ!なのに、他の奴に横になんて入って欲しくない!」
「他の奴、か」
釈七さんの顔が、不意に浮かぶ。
彼はあくまで、俺の相談に乗って、慰めてくれただけ。それは分かっている。けれど。
ともだちにシェアしよう!