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第三章 北極星(ポラリス)・29

◆◇◆ 「もー、何もこんな時じゃなくったっていいのにさ」  ぶつくさこぼしながら、光はスーツケースに荷物を詰める。 「何言ってんだよ。大分前に決まってたんだろ?観念して行ってこい」 「だーけーどー!まさかあんなことがあるなんて思わなかったし」  それを言われると、要因である俺は口を噤むしか無い。 「ごめんな?心配かけたことは、謝る」 「ほんとだよ!って言いたいところだけど、やっぱり俺も悪かったって思ってるから、仕方ないんだけどね」  苦笑を浮かべ、光が言う。  あの悶着があってから約一週間後。修学旅行の下見と研修のため、光は家を空けることになったのだ。桜校はエスカレーター制だから、「修学」という言い方が正しいか定かではないが、中等部の三年生は秋口に旅行をするという。行楽シーズンピークを過ぎた梅雨前後は、教師達が宿泊所などを廻るには格好の時期らしい。 「ま、まぁ、たかだか三泊四日だろ?すぐ終わるって」 「そうだけどー。ちょっとトラウマだよ。俺が帰っても鞍がいなかったらどうしようかとか」  馬鹿言うな、と即答できない自分がもどかしい。  もちろん、泣くほど感情を昂ぶらせてまで訴えた光の想いを、踏みにじる気は毛頭ない。しかし、相変わらず「隣にいるのが自分で良いのか」という疑念は消えない。欲してもらえる限りは今まで通り宮城家に世話になるつもりだが、今に至っても自分のベッドすら買う予定も立てられなかった。 「とっ、とにかく!帰る日は光の好きなもん用意しといてやっから。デザート付きで」 「ほんと?!うん、じゃあそれを楽しみに頑張る」  根は見かけほど単純ではないともう判っている光だが、こういう反応は妙に子どもじみている。だが、今の俺にはそれくらいしか言えなかった。ころっと目を輝かせて笑ってくれる光が有難く、そして、愛おしい。  口には出さなかったが約束する、と深く頷いた。 「あー、でもその前に、ね?」  ぐい、と引き寄せられる身体。拒む隙も与えず、落ちるキス。 「ちょっ、明日早ぇんだろ?!んなことする場合じゃっ」 「いいの。四日も離れてるんだもん、鞍の感触をしっかり覚えておかなきゃ」  ある種の予感を感じて押し返したが、すぐに今日は好きにさせようと考え諦めた。思ったとおり、何度も唇は重なり、その間にもシャツの下に相手の手が潜り込む。 「ん、ぅ……あ……っ」  ぞくり、背中が震える。生温く感じる指先が、相手の熱か自分の熱かわからないまま温度を上げ、溶けるような肌触りになる。伴って、総毛立つ悪寒はいつしか快楽へと変わるのだ。何度経験しても、一連の経緯は変わらない。速まる鼓動、触れられるたびに上がっていく体温。好意を自覚してからは尚更。その過程までもが、触覚を過敏にする。  ソファに押し倒され、服を捲られ、胸や腹を舌が這うのもいつも通り。あの夜のような激しさはすでに無い。が、甘く、それでいて羞恥を誘う丁寧な愛撫は、光の欲望を存分に俺に伝えた。  合皮張りのソファは拭き取るのに易く、粘度の高い体液が零れ落ちても造作ない。寒くはなくなった室内温度、その代わりに汗が滲んでも吸い込まず、肌をじっとり濡らすだけだった。  指でいつもと同じに馴らされたあと、両脚を高く持ち上げられる。片膝を床に置いた体 勢で、光は自身で俺を突いた。 「ンン……っ!っふ、ぁあああぁっっ!!」  見下ろされる格好で、腰を打ち付けられる。手の甲で押さえても、漏れる声。相変わらず自分のものとは思えぬほど甲高い。 「……っ、は……鞍。鞍も、ちゃんと焼き付けて、ね?」  幾度となく交わって、光は俺の敏感な部分をすっかり知り尽くしている。そこばかり集中して責められる。骨の髄まで抉られるみたいに。  堪えきれずに解き放ち、ぐったりと力が抜ける。自分の中にも、注がれた欲情。  ひりひりと刻まれた痛みと熱は何があろうと、きっともう生涯忘れることなどない。たとえ、傍に居らずとも。 ◆◇◆ 「大丈夫?寂しくない?鍵はちゃんと閉めるんだよ?ご飯は……俺よりも鞍の方が忘れず食べるか」 「子どもじゃあるまいし。んなこと分かってるよ。光こそ、変に気を抜くなよな?」  翌日の夜、かかってきた電話。背後が騒がしい。仕事とはいえ旅先だ、教師たちには多少骨休めの部分もあるのだろう。 「ああ、はい!今行きます!……ごめんね鞍、呼ばれちゃった。またかけるから、戸締まりだけは忘れずにね!」 「はいはい」  慌ただしく切れた携帯電話を眺めて、溜息を吐く。とはいえ、憂鬱を含んだものではなく。  受話器を通した声には和んでも、この家に一人でいるのはさすがに落ち着かない。普段でさえ時折いたたまれなくなるのに、実子でも養子でもない、赤の他人の俺のみが在宅しているのはやはり異常だ。留守番、という名目であっても。  決まり悪く思えど、一応は四日間の辛抱。寄る辺なさは胸に押し込めて、やり過ごすしかあるまい。  自分に言い聞かせていたところで、またしても電話の着信音が鳴った。忙しいのを邪魔立てするのはよくないが、光と話していれば気が紛れる。だが。  スピーカーから聞こえてきたのは、別のひとの声だった。 「もしもし、鞍?」 「え、釈七、さん?」  意外な相手に驚く。すっかり光がかけ直してきたものと思っていたので、発信者名を確認していなかった。  大体において、釈七さんから電話がかかってくることなんて滅多にないのだ。シフトの変更などの連絡は大抵店の内電話が使われるし、そもそもフリーターで出勤日数の多い俺は、その手の打ち合わせは勤務時間内や業務終了後に済ませてしまう。緊急な用事のためにと番号は伝えてあったが、以降釈七さんの携帯から直接電話を受けたことは皆無だった。 「え、ど、どうしました?何かあったんすか?」  だから、今日のバイトで俺が何か重大なミスでも犯したのだろうかと思った。時刻も丁度閉店後小一時間といった頃。精算や後片付けをしていて発覚したのならおかしくはない。少々身構える。 「いや。別に大した用事じゃないんだが」  きっぱり物を言う副店長には珍しく、やけに歯切れが悪い。 「お前、今日から光一郎が出張だとかなんとか言ってただろ?」  そういえば、と思い出す。ちょっとした雑談の折に、何気なく洩らした覚えがあった。今日は光もいないから、多少残業ができるとかなんとか。しかし、それが釈七さんに直接関係あるとは思えない。 「はぁ」 「今、宮城の家に一人なのか?」 「え、えぇまぁ」 「その。居づらい、んじゃないか?他人の家に一人、ってのは」  どきり、と肩が僅かに上がる。彼はこの状態の、俺の心情まで見透かしていたのだろうかと。  和がとっくにこの家にはおらず、慈玄の寺に寝泊まりしているのは釈七さんも知っている。和は自分の現状を隠し立てしないし、カフェに顔を出している慈玄のことも紹介しているはずだ。俺を「兄」だと皆に吹聴したように。この間は和が親密にしていたという慈玄を「得体の知れない大男」といった具合に表現していた彼だが、その後話題に上らないところをみると奴の素性が伝えられた可能性は高い。  にしても。光が留守だとは言ったが、俺はそれ以上のことは何一つ口にしていない。一人なのが不安だとも、事実上宮城家の者では無い自分が留守を任されていいのかとも。 「それで、な?光一郎が不在の間、俺のとこに来ないか、と思ってな。もちろん、お前さえよければ、だが」 「……え?」  正直に言えば、願ったり叶ったりな提案だった。数ヶ月ほど居候しているとはいえ家人が誰一人在宅していない家にぽつんといるより、主がいる家に「泊まりに行く」方がよほど気楽ではある。だが。 ── 俺が帰っても鞍がいなかったら……  光の言葉が頭を過ぎる。光が帰る前に宮城家へ戻れば良いのだから、そんな杞憂は懐く必要ないのに。 「いや、無理に、じゃないんだ。そうだ、お前夕飯食ったか?」 「いえ、これから用意しようかと思ってたとこですけど」 「んじゃとりあえず、今晩飯付き合わねぇか?こんな日でもなきゃ、機会ないしさ」  それなら、と思う。一人の食事は、今となってはどうにも味気ない。 「はい、是非」 「そうか。お前の好きなもん奢るからな」 「え?!いや、いいですよ!」  こちらに迎えに来るという釈七さんに途中まで歩いて出ますと伝え、電話を切る。上着を羽織ると玄関を出、鍵をかけた。  背徳感が、じわりと胸を刺す。光は仕事で家を空けているのだ。なのに、その光がいない間に自分はあのひとと会うのか。  なんのことはない、一緒に夕飯を食べるだけだ。分かっている。それだけ、ただそれだけ……なのに。自分に必死で言い訳していると気付く。  ずっと、引っ掛かっていた。確かめたいと思った。あのときのことを、言葉の意味を。  俺は、光を裏切るのだろうか?  バイクのヘッドライトが、己の姿を照らし出す。それでいいのかと問い詰める如く。眩しくて目を細めても、顔を背けたりはできなかった。

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