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第三章 北極星(ポラリス)・28
「光一郎とは、ちゃんと話せたのか?」
「あ、はい。お陰様で」
あれで話して、解り合えたのかと言えば定かではないが。このひとが俺を気遣い、光と向き合う勇気をくれたのは事実なのだ。
「すみません、たくさん迷惑かけて」
「なに、気にすんなって。お前は不本意かもしれねーけど、正直俺は少し楽しかったからな。一緒にケーキ作れたのも、買い物できたのも、色んなこと話せたのも。それに」
くす、と小さく笑って、釈七さんは口を俺の耳に近付けた。
「一緒に寝たのも、な?俺は忘れねーから」
どっと、顔が熱くなる。
「ぇ、あ……」
何か言い返したくとも言葉が出ず、口をぱくぱくさせている俺の目の前には、少し意地の悪い笑み。何をどこまで、信じれば良いのやら。
「よし、できた」
俺があたふたしている間に、調理台の上には見た目も華やかなケーキがひとつ、生まれていた。初夏らしい、鮮やかな緑のスポンジにムース。淡く黄色がかったクリームと、カットされ上部に飾られた柑橘類のコントラストが美しい。
「抹茶のフロマージュだ。餡とか大納言と合わせる和テイストだとありきたりだから、柑橘類と合わせてフレーバーティーみたいな風味にしたかったんだが、どうかな」
「はぁ……」
ただただ俺は見とれていた。店頭に並んでいても、まったく違和感がない出来のように見える。
「食ってみるか?」
「え!いいんですか?!」
思いも寄らなかった提言に、つい声が大きくなる。ハッチの向こうから客の視線が飛んできたのを感じ、慌てて口を塞いだ。
「はは、構わねぇよ。お前に試食してもらいたかったしな?」
いちいち釈七さんの言い方が思わせぶりに聞こえてしまうのは、意識しすぎなせいだろうか。それでも、試食第一号という大役を請け負えることへの魅力は抗いがたい。
「じゃ、じゃぁ、いただきます」
長方形のケーキの角をフォークで落として、口に含む。緑茶の香りと、甘酸っぱい果汁は意外とよく合った。チーズのコクはあるのに、鼻を抜ける爽やかな苦みが後味をすっきりさせている。
「うめぇ……すっげー美味いです、これ!」
「そうか。なら良かった」
夢中で味わっていたのですぐには気付かなかったが、俺が食べる様子を釈七さんはじっと眺めていたようだった。
「? どうかしたんすか?」
「いや。普段のお前に戻って良かったな、と思って、な」
言う割に、釈七さんの表情には若干の翳りがある。原因は全く掴めないが。
「え、ぇと。ほんといろいろ、ありがとうございます。あの……」
「なんだ?」
「思ったんです。俺、釈七さんのこと、好きだな、って」
自分としては偽らざる気持ちを吐き出したつもりだったのだが、相手はなぜか驚愕を顔に貼り付けた。驚かれる意味も俺には全然想像できなかったが、ずっときちんと彼に伝えたいと思っていた言葉だった。口に出して尚、はっきりと認識する。
「ここでのバイト始めて、釈七さんにいろんなこと教わって、下手に励ますわけじゃない
のに、言ってもらえたこととか嬉しくて。それに、今回みたいな事があって……。俺、いままであんまり他人にそーゆう感情持ったことないんすけど」
どうにか言いつのってはいたが、上手く伝わっている自信は無い。けれど、このひとには言っておきたい。そんな強い衝動に駆られる。
「相談とかも苦手なんすけど、釈七さんには色々言えて。え、えと、釈七さんにしてみたら迷惑かも知れませんけども。尊敬、っていうか、要するに好きなんだと思います」
「…………」
釈七さんは、ぽかんと口を開ける。やはり、俺みたいな奴に好意など向けられても困惑するだけなのだろうか。
しかし、次の瞬間。彼はぷっと吹き出すと、堪えきれなかったように大笑した。その反応に、今度は俺の方が唖然とする。そんなに、おかしなことを口走ってしまったのか。
「あぁ、悪い。そういうこと、な?」
「そういうこと?えぇ、っと、だからその、あの夜のきす、とかも、嫌だったわけじゃなくて」
彼がどんな想いであのような行動に出たのかは別として、単純に釈七さんのことは好きだから気にしなくて良い。自分では、そう言いたかったつもりだった。
「はぁ……」
だが、またしても彼は俺の予測に反して、困ったように嘆息した。
「え、あれ?す、すみません、なんか」
返事は無く、釈七さんはしばし考え込むような顔付きになる。
「鞍、ちょっとこっち来い」
顔を上げた相手に、急に腕を引かれる。勢いと強い力で身体を反転させ、俺を壁に押しつけた。冷蔵庫とシンクの隙間で物陰になっている場所。ハッチから覗く客席フロアからは死角になっている。
何事かと問う暇もなく、唇と唇が重なる。軽く舌を絡め取られ、吸われた。微かな水音が、チュッと耳に響く。
「……ぇ……え……?」
「お前な、んな俺に気を許すようなことばっか言ってると、光一郎のこと忘れさすぞ?」
離れて真正面に向き合った口元が、ニヤリと上がる。
「っ!……ぇ、は、はぃ……すみま、せん……」
激しく心臓が脈打つ。
タイミングが良いのか悪いのか、丁度そのとき、客席から店員を呼ぶ声が聞こえてきた。
「はい!ただいまお伺いします!」
返事をした釈七さんは、何事もなかったように厨房を出て行った。
壁に沿ってずるりと背中が滑り落ち、俺は少しの間身動きがとれなくなっていた。鼓動がどくどくと波打ち続ける。一体何がどうなったのか、考える余裕もないまま。
「鞍!ミルクティーとオレンジジュース頼む!」
客から注文を受けた釈七さんの声で我に返った。
「は、はい!」
そこからまた、何も変わらぬ時間が流れ出す。さっきの一瞬の出来事もまた、白昼夢のようで。
身体で覚えた手順は通常通りにできても、触れあった唇だけはやたらと熱い。脈拍も速いまま高鳴っている。
なんだか、変だ。
釈七さんには、触れても触れられてもほとんど緊張を伴わない。一昨日の晩のキスも、取り乱していたせいかも知れないが熱は伝わってもこんなにドキドキと鼓動が速まったりはしなかった。
おかしい。これではまるで、光に触れられたときの……あの悪寒から、蕩けるような感触に変わるときの……。
頭を振り、手元に集中する。こんなことに、戸惑ってる場合ではない。
職務中なのも無論だが、光がああして気持ちをぶつけてくれたのだ。今はあいつのことを、もっと考えなくては。
だけど。
胸に、苦い痛みが広がる。釈七さんは「忘れさせる」と言った。冗談だろうとは思う。でも。
とにかく今は、仕事だけに専念すべきだ。釈七さんも、「職場の先輩」の態度に戻っていた。よけいなことは頭から追い出す。
ところが。
このときの出来事を否が応でも想い起こさせるような局面が、数日後俺に待ち受けていた。
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