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第三章 北極星(ポラリス)・27

◆◇◆  目前に近づく雨続きの季節を忘れさせる、強さを増した日差しが目を射る。  陽が昇れば、悪夢はまるで終わったようで。  翌朝は、何も変わらずに訪れた。この二日間など、タイムスリップしたみたいに跳び越えてしまったようだ。現実だと認識できる根拠は、二人して寝不足なのと、俺の身体があちこち悲鳴を上げていることだけ。抱かれた朝はいつも腰や背中に鈍い痛みがあったが、昨夜のように無茶苦茶にされれば、それは一層ひどく軋む。  ぼんやりする頭を抱え、腰を擦って朝食を用意する。といっても、ごく簡単にしかできない。トーストと少しの生野菜、スクランブルエッグのみだ。  コーヒーを落としていると、欠伸をしながら光が二階から下りてきた。先に意識を失った俺をソファーに残し、毛布を掛けた後自室に戻ったらしい。別の場所で休んだのは、怒ったり泣いたり、激情を露わにしてしまったのを恥じたせいか。まるで何も覚えていないといわんばかりに、眠そうな目をしばたたかせ「おはよう」と緩くへらっと笑った。 「そんなんでちゃんと仕事勤まるのかよ」  だから俺も、努めて普段通りの態度で接する。 「大丈夫だよー、無理そうだったら自習にしちゃうから」 「……生徒に同情するよ」  こんなことを言ってはいても、きっと光は手を抜かず授業をするのだろう。見たことがあるわけでもないのに、なぜか俺は確信していた。 「それよりさ、鞍」  テーブルに着いた光は、不意に声を硬くする。 「今日はちゃんと帰ってくるんだよ?バイト終わったら、真っ直ぐ」 「うん、分かってる。こんなに冷蔵庫空っぽなんじゃ、買い物くれぇはしねーとだけどな?」  キッチンは、一昨日の夜の状態だった。シチューのこびりついた鍋もそのままになっていた。なにも手に着かなかったと光は言った。本当にそうだったのかもしれない、とは思う。が、やはり解せない。俺の存在が、相手にとってそんなに重いものだとは。 「それじゃ、行ってきます」  朝食を済ませ、一足先に光は家を出る。 「ん、いってらっしゃい」 「んー」  至極当然みたいに、玄関先で口を突き出して。 「なんだよ?」 「なに、って。行ってらっしゃいのチューは?」  昨日の今日で、以前と同じにそんなことをのたまう光。こいつのこういうところが、繊細なのか鈍感なのか分からない。 「アホか、調子ん乗るな」  昨晩あんな修羅場を繰り広げたばかりなのに、と言外に含ませる。 「戻って来てくれたんだから、それくらいいいでしょ?」  俺の返答も待たず、素早く唇同士が触れた。流れるように玄関を出られては、文句も言えない。 「ったく……」  何も考えていないわけではないと思う。少しでも俺を安心させたいのだ。それは、俺にだって判る。それに応えたいとも考えている。  しかし、燻りだした靄は、そう簡単に消えるものではない。  光が今誰よりも俺を想ってくれていること、俺はまだここにいていいことは、十分に思い知らされた。あんなふうに泣かせてしまったのも後悔している。だけど、まだ自信が無い。自分のような者が、傍にいるだけで本当に光が救われるのか。この先、もう二度とあいつを困らせたり、不安がらせたりしなくて済むのかが。  それと、もうひとつ。 「よぉ、ちゃんと出て来られたな」  ここでも、以前と変わらぬ笑顔。淡いブラウンの制服に腕を通した俺に向けられた、赤味を帯びた濃褐色の瞳。  そう、このひとの「気持ち」も、まだはっきりと見えないまま。  平日でもカフェ「sweet smack」はそこそこ忙しい。子どもを送り出した後、雑談に興じる若い母親のグループ。営業職か、仕事の合間らしきスーツ姿の男女。手土産にとテイクアウトのケーキを求める年配の女性。休日ほどではないが、様々な人が出入りしている。  接客ばかりではない。休日ほど混み合わないからこそ、平日のうちにやらねばならぬ業務もある。イベント用の菓子や軽食メニューの試作など。  体調不良でもないのに、寝不足如きで休んでなどいられない。ただでさえ、高校生や大学生のアルバイトが授業に出ている日中は人手が不足しがちなのだ。 「でも、釈七さんも大学生ですよね?いいんですか?出席しなくても」 「ん?これでも単位はちゃんと修得してるからな。もう四年だし、そんなに講義もゼミも無い。ま、学校行くよりバイトしてる方が楽しい、ってのもあるが」 「へぇ」  厨房で手を動かしつつ、釈七さんと話す。  入った当初は和達と一緒に給仕や注文受けといった仕事をしていた俺だが、この頃はあまりホールには出ず、調理補助担当がメインとなっていた。  ケーキを製作している厨房は隣接した別棟にあるのだが、そちらではなくドリンクや軽食を作るカフェ内部のキッチンでの作業だ。  客が少ない時間帯なので、釈七さんはケーキの試作を手がけていた。別棟にいるパティシエに提出し、案が通れば彼等が手を加えて商品化される。店のショーケースには、そうやって釈七さんが原型を作ったケーキも幾つか並んでいた。 「気心の知れたバイトの奴等が昼間は少ないからな。お前がいてくれて、俺も心強いよ」  お世辞か本気かわからないが、釈七さんにそう言ってもらえるのはこそばゆくも嬉しい。自分がいてくれてよかった、などと、今までの職場では一度たりとて言われた事なんかない。  それで十分ではないか、自分に言い聞かせた。あの晩のキスなど。「傍にいろ」と言われた本意など。一昨日昨日の二日間は、取り乱した挙げ句の束の間の幻だったのだと。  けれど。

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