62 / 190
第三章 北極星(ポラリス)・31
◆◇◆
以前訪れた時と、何の印象も変わらない部屋。落ち着いたダークトーンの空間、広く明るいキッチン。床の雑誌だけは今日は無かった。それらは本棚とマガジンラックに整然と収められている。
突き当たりの窓からは、黒く塗りつぶしたような桜公園がやはり見えるだろうが、あの日ほど陰鬱にはきっと映らない。夜の静けさが、漂って見えるだけだと思う。
「適当に寛げよ?それとも、先風呂入るか?」
釈七さんの声はいつもと同じだが、むしろ先日より明るさは無い気がした。あのときは、努めて明朗に俺と接していたのだと分かる。俺の辛苦を軽減させるために。
別に今の声が暗い、というのではない。落ち着いた静かな音程なのであって。
「あぁいえ。釈七さん、お先にどうぞ。今日もフルで仕事だったんだし」
「そうか?じゃあ、お言葉に甘えて」
「って、ここ釈七さんちじゃないっすか。主が遠慮しなくても」
「それ言うなら、客にすすめる方が優先だろ?」
それもそうか、と考え首を捻る。
「んな難しい顔すんなって。俺が先に使うよ」
俺の頭を一撫でしてから、釈七さんは洗面所兼脱衣所に入っていった。
見送ってから、ぼんやり部屋を眺める。つい来てしまったものの、俺はここで何をしようというのか。
この間は、宮城家へ戻るのが怖くて……光と顔を合わせるのが怖くて、ここに滞在させてもらった。だが、今夜は違う。確かに宮城の家に一人で留守番、というのは居心地が悪い。それを逃れるために来たことも一理。ではあるのだが。
厨房でキスされてから一週間ほど。幾度となく釈七さんとはシフトが重なったが、態度は以前と何一つ変わらなかった。思わせぶりな言葉を聞くこともなく。相変わらず背中を叩かれたり肩に手を置かれたりはしたが、慌てふためいたりどくどくと鼓動が速まったりはしなかった。感じたのはこれまで同様心地良い、柔らかく馴染むような体温。彼と共に過ごす時間は平穏だったし、安らぎを覚えた。
どぎまぎしたり、感情を掻き乱されたり、相手の出方に思い悩んだり。光に対しては常時存在するこれらの想いは、釈七さんには感じられなかった。あの、口付けの瞬間以外には。
だから、どうにも現実とは思えなかった。ここで過ごした二日間も、翌日のキスも、先程のファミレスでの彼の言葉も。間違いなく、紛れもない現実であるのなら。
あの夜釈七さんが言った、「傍にいろ」という言葉。少しだけ、実践したいと思ったのだ。
釈七さんはいつも、この部屋に一人。だとするならせめて数日でも、「傍にいて」みたいと。仕事とはいえ光が「一人でない」間ならば。自分が釈七さんに何を求めているのか、釈七さんが俺にどうして欲しいのか。それが、知りたい。
床に座りとりとめのない思考を巡らせていると、釈七さんが風呂から上がってきた。
「なんだ、足くらい崩せば良いのに」
言われて、自分が正座していたことに気付く。
「え、っあ……」
「まぁ、いいけどな。そういえば、お前がこないだ買った着替え、そっくりそのままになってるぞ?ただスウェットはあの夜着て帰っちまったから、今日は俺のでいいか?」
クローゼットから取り出すと、バスタオルと一緒に俺に手渡した。
「あっ、ありがとう、ございます」
「お前、ほんとすんなり『ありがとう』って言えるようになったんだな」
ふ、と目を細めて言う。その表情に一瞬心臓が跳ねたように感じたのは気のせいか。
「あの、釈七さん?」
「なんだ?」
「俺、何すればいいっすか?」
漠然とした問いに、釈七さんはきょとんと目を見開く。
「何、って、何が?」
「いやあの。ほら、光といるときは、洗濯したり飯作ったり、っていうこともしてて。間借りしてるんだから当然と思ってたし、その、ここにいさせてもらう間も、そーゆうことした方がいいかな、って」
それを聞いて釈七さんは、声を上げて笑う。
「あはは、んなこと気にしなくていいんだよ。んー、でも、俺もお前の飯は食ってみたい、かな。やってくれるか?」
「は、はい!もちろん!!」
むしろ、させてもらった方が気が楽だ。こくこくと頷く。
「それよりも、な?鞍」
わずかに湿り気を帯びた指先が、するりと俺の頬を撫でた。
「その口調、どうにかならねぇか?」
「へ?くちょ、う?」
指先が掌に代わり、ぴたりと頬に沿う。風呂で温まったためか、じんわりとした熱が伝わる。とくん、と心音が鳴るのが裡から聞こえた。
「歳もそんな変わんねーのに、お前、俺にはずっと敬語だろ?もう少し砕けた感じでもいいと思うんだが。それに、呼び方も、な?」
優しげにも、意地悪げにも見える笑み。なんだか、試されているようで。
「いっ……いやそれはあの、ま、前にも言いました、けど。一応ほら、しっ、仕事先の先輩、ってか上司、ってか、ではある、から……その……」
「仕事先では、な?けど、プライベートでこうして部屋にまで来てんだから、その間はいいんじゃねぇの?」
「…………ぅ」
俺とてなにも、敬語を使うのに慣れているわけではない。どちらかといえば、正しく使えてはいないと思う。
不慣れを承知で敬称をつけたりですます調の言葉遣いをするのは、職場の人間に限られていた。無論礼儀としての意味もあったが、親しげな調子で話さないことで、その相手との仕事以外での関わりを拒絶する、防御の役割もあった。だから、上司は元より同僚や後輩にも、仕事先では俺は極力敬語で話していた。下手に懐かれて勤務時間外に絡まれるのも面倒だったし、なにより必要以上に他人と交わるのを避けていたのだから。
だが、今のカフェの面子は若干意味合いが違う。
カフェの連中はいままでの職場では考えられないくらい、皆仲が良い。和や光と出逢って、彼等の周囲の人間にも顔見知りが増えてきた俺だが、はたしてその中に溶け込んでいいのかどうか未だに躊躇があるのだ。
こと釈七さんに対しては、本当に尊敬に近い感情も懐いてるし、馴れ馴れしくタメ口をたたいた時点で、彼に対する想いや関係が崩れてしまいそうなおそれがあった。
釈七さん本人に、だけではない。カフェのバイト皆が慕う釈七さんに俺みたいな新米がいきなり擦り寄るような真似をしたら、見ている方も怪訝に思うだろう。それを考えると、おいそれと普段の口調はできなくなり、いつしか硬い物言いが通例となっていた。
「数日とはいえ、一緒に過ごしてくれんだろ?だったら、もっと打ち解けてくれる意味でも、な?」
「う……っ、努力してみま……る」
意識して言い直すと、釈七さんは可笑しそうに笑った。
「悪い、命令じゃないんだが」
もごもごと塞いだ口に、素早く相手の唇が触れた。
「……っ?!」
「じゃ、風呂入ってあったまって来い」
返事もそこそこに、洗面所へ駆け込んだ。鏡を見ると、自分の顔が異様に赤い。己の様相を見て、殊更心音が大きくなる。
釈七さんのキスは、やはり隙が無い。押し返す暇は当然なく、突然で抵抗できない。しかし、「今しなくても」とは絶対に思えないのだ。恥ずかしいけれど、緊張と同時に奇妙な安息感を覚える。
── 俺は、釈七さんにキスして欲しいと思ってるのだろうか。
鏡の中の自分に問う。
あの夜。苦しくていたたまれなくて、自分で自分が疎ましくて仕方のなかった時に与えられた初めてのキス。
どういう形のものかは分からなくても、「好きだ」という想いを口にしたあとの厨房でのキス。
今のも含めて何度かされた軽いキスも、どこか自然に、流れるように落とされる。感情をぶつけ合って、貪るように、傷を埋め合うようにする光とのキスとは違う。ふざけ合ってするのとも。
── もしかしたらそれは、キス、だけではなく。
不意に浮かんだその考えを、頭を振って取り払う。けれどもし、もしも……釈七さんが求めてくれたとしたら。
何を馬鹿なことを。別の内なる声が叱責する。
光がそうしたからといって、釈七さんまでが同じ行為に出るなどありえない。そもそも、男が男を抱くこと自体、極めて不自然なのだ。
とはいえキスをされている時点で、その定義は崩壊しているとも言えるが。
服を脱ぐ。ごつごつとした、男の身体。比較的細身かも知れないが、筋肉はそれなりに付いているし肩幅もある。胸の膨らみもなければ、丸みも、流線形のくびれもない。
ひどい、倒錯だ。
この身体を抱かれるとか、抱かれても良いとか。
浴室に入ると、水のシャワーを頭から被った。矛盾を矛盾と考えられなくなっている自分も、光に対する後ろめたさも、全部洗い流してしまうように。
ともだちにシェアしよう!