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第三章 北極星(ポラリス)・32
◆◇◆
「ちゃんとあったまったか?なんか、冷たい気もするが」
俺の髪にドライヤーを宛てながら、釈七さんが訝しむ。
シャワーの水温が低い状態で、掻きむしるように髪を洗ってしまった。冷えたのも無理はない。くしゃみをひとつして震え上がったので、出る間際にやっと熱い湯にして全身へ掛け流したが、温まったのは表面だけだ。
「だいじょぶ、です……っくしゅっ!」
「そこでくしゃみしてたら説得力もなんもねぇよ。乾かしたら、ココア淹れてやるから」
すみません、と小声で謝る。苦笑いではあったが、釈七さんは楽しそうだった。
ドライヤーの温風が首筋に心地良い。それに、わさわさと髪を掻き撫でる手。他人に髪を乾かしてもらうのが、こんなに安らぎを覚えるものだとは知らなかった。これも、相手が釈七さんなればこそ、だろうが。
散髪に行って同じようにされても、緊張感の方が先に立つ。
光には、そういえばされたことがない。どうしてもとせがまれて、一緒に風呂に入ったことは数回あったのだが。なし崩しに身体を弄られ、そのまま浴槽で、なんていうのが大体のオチで。
「お前の髪、ずいぶん柔らかいんだな」
「……っえ、あ?」
淫猥な行為をつい思い返してしまっていたので、急に声を掛けられ動揺した。
「触り心地がいいから、こうしていると癒される」
しみじみした口振りで言われると、よけいにあたふたと狼狽える。
「ぇ、いや、たっ、ただの癖っ毛で、その」
釈七さんはソファに腰掛け、俺がその前の床に直にぺたりと座った体勢だ。双方身長はあまり差が無いので、髪を触るならこの方がやりやすい。
見下ろす形で今は見られているであろう俺の頭頂に、軽く口づけが落ちた。
「!」
「これで完了、と。待ってろ、ココア持ってくるから」
唇の感触を刻印するように、同じ場所をくしゃっと撫でてからキッチンに向かう。一瞬の所作に座ったままの俺は唖然とし、じわじわと速まる鼓動を感じていた。
このひとのこういった戯れは、実に何の気負いもなく繰り出される。
「ほら、どうぞ」
釈七さんはマグカップをテーブルに置かず、直接俺の手に握らせた。甘い香りの湯気が、鼻先をくすぐる。
「あ、ありがとう、ご……」
言いかけた口を、長い指がすっと押さえた。
「『ございます』、はいらねぇっつったろ?」
窘めながらも楽しげに微笑む相手の顔が、正面にある。
「……そ……っ、それ、で……よ、呼び方、ってどうすれば」
敬語の禁止と共に言われていた、もうひとつの厄介な課題を思い出す。
「そーだな、他の奴等もそうしてるから釈七、って呼び捨てでもいいんだが。あ、俺下の名前晃、って言うんだ。知ってたか?」
「あき、ら」
申し訳無いことなのだが、実は今ここで初めて知った。
カフェのネームプレートは名字のみの記載だし、普段は当たり前に「釈七さん」としか呼ばないのだから。フルネームが表示されているとすれば俺が目にするものだとシフト表だが、一人一人の名前をそれほどまじまじと見た試しがない。もともと名前を覚えるのが苦手な俺は、故に出勤日数の多くないバイトメンバーの顔と名前は全く一致していないほどだった。
「そう、晃。呼んでくれないか、鞍」
「……っ、ぅ、え、えとっ!ああああの、で、出来れば、で、いいで……いい、か?」
光を光、と呼び始めた時は気安く思えたのに、このひとを晃、と呼ぶのはどうにも躊躇われた。「呼んでほしい」と言った釈七さんの瞳が、やけに熱っぽさを帯びていたせいか。
「あ……はは、そう、だな。ん、呼べたら、でいい」
ごまかすように言う横顔に、仄かに赤味が差して見える。もしや、照れているのだろうか。
冷静で隙のない釈七さんには、あまりそぐわない仕草に思えた。が、幻滅したのではなくむしろその逆で、仕事中なら決して見られない表情につい惹きつけられてじっと見つめた。
「ん、何か言いたいこと、あるか?」
しかしその表情はあっという間に消え、普段の優しくも沈着な釈七さんに戻る。もう少し、もう少しだけ……あんな彼を見ていたかったのだけど。
「釈七さん?」
「ん?」
「釈七さんは、好き、なんすよね、俺のこと」
自分で言うのはあまりにもおこがましい台詞。けれど、「そうなのか」と思ったからには。
「あぁ。じゃなきゃ、わざわざこの部屋に招き入れたりしない。キスだってしない。お前があまりにも鈍感だから、証明したい、って言ったのは俺だしな?」
明瞭な即答。先刻みたいに、頬を赤らめることもなく。その様子に、少しだけ悔しくなる。朗々と放たれた言葉は、どうしても俄には信じられない。
「だ……だ、ったら」 自分が何を言おうとしているのか。浅ましく、図々しく、軽率で軽薄な。分かってはいても、止められない。
さっきはあんな顔見せたくせに。
「その、シたい、とか……は、思わない、んですか?セックス、とか」
見損なった、と罵られて追い出されるなら構わない。きっとこんな俺には、それが一番妥当な応対だ。
恐る恐る見上げた釈七さんは、案の定相貌を凍り付かせていた。
呆れたのか、落胆させたのか。相手の口からどんな返答が出されるかを、固唾を飲んで待った。
しばらく硬直したあと釈七さんは目を伏せ、かりかりと頭を掻く。そして肩を落とし、深く息を吐いた。
「……思わないわけ、ないだろ?」
ぼそりと小声で。
自分で訊いておきながら、その言葉に思わず顔を跳ね上げた。頭に血が上る。視線は逸らされていた。気まずそうに横を向き、怒ったように眉根を寄せている。否定されるよりも蔑まれるよりも、何倍も、申し訳無く思った。再び目線を落とす。
「……すみません」
「いや」
互いに口ごもり、また沈黙が落ちる。
釈七さんの様子は、どう見ても嘘偽りを言っている感じではない。それは著実に分かるのだが、だからといって率直には受け止められない。
光だけに限らず、釈七さんもだなんて。
恋愛感情と色欲が直結するのは、俺にだってなんとなく分かる。かくいう俺も、風呂場でおかしな妄想を必死でかき消したのだから。しかし、やはり俺は男なのだ。同性でも……例え「好きだ」と言われても……同じ形の身体に、そんなに自然に欲情するものだろうか?
「でも、あの俺、男です……よ?」
いつだったか光にしたのと同じ反論を、釈七さんにも投げかけた。
「んなもん、見りゃわかるよ」
苦笑して、ようやく釈七さんがこちらに顔を向ける。
「それなら!なら、なんでそんなこと思うんすか?俺、普通に筋肉付いてるし、別に華奢でもねぇし、肌だってすげぇ綺麗、とかじゃねぇし」
「お前自分で振っておいて、ずいぶんな言い様だな」
苦笑が含み笑いに変わる。笑われても、俺には理解しがたい真剣な疑問だ。
「だって!そっ……それこそ、和、みたいに、色白で細っこいなら別、だけ……ど」
そう。和の事を比較してしまう要素は、ここにもある。
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