78 / 190

第三章 北極星(ポラリス)・47

◆◇◆  翌日、昼過ぎにバイトを上がった俺は、店に顔を出した司さんと連れ立って目的地に向かった。意外な組み合わせに思えたのか怪訝な目で見た釈七さんに、そういえば報告しそびれていたと思い、一言告げる。 「一人暮らし、しようと思って」  その言葉だけで、彼は事情を察してくれた。 「そう、か。一人になれば考えもまとまってくるかもしれねぇしな。で、司は?」 「あぁ、鞍が苦心しているようだったから、学生寮を紹介してやろうと思う」  ふぅん、と軽く返事をし、釈七さんは俺の頭をぽん、と撫でた。 「良いところがみつかるといいな?何か必要なことが出て来たら、俺にも伝えてくれ」 「はい、あ……ありがとう、ございます」  置かれた手は熱を持たず、以前と同じ感触だった。気持ちは変化してるのだろうが、今このときはなにも感じない。自分の決断がこれで良かったのかと、微かに迷う。  表に出ると、司さんの腕が俺の背に回る。ビクリと身体が震えた。 「つ、司さん……手、を」  少しだけ身を捩り、逃れようとする。しかし、恥ずかしがっただけだと思われたようで。 「ん、手?あぁ、これくらい蓮にもやってるし、気にするな」  そう言い、肩を寄せる。無理に振り払うのも悪い気がして、緊張したまま歩いた。 「お人好しだな、鞍は」  けれど司さんは、するりと腕を解いた。強ばっているのは、触れていればさすがに気付かれる。 「は?そ、そう、ですか?そんなん言われたのは初めてです、けど」 「そうだよ、嫌なら嫌とはっきり言えばいいのに」  少し、からかわれているのかもしれない。一瞬そうも考えたが、続く司さんの声は至って実直な響きだった。 「蓮が心配していた。あぁ見えて、観察力が鋭いんだ、あいつ。鞍は周囲の人間に合わせて自我を押し殺すところがあるんじゃないか、ってな」  釈七さんがそう呼ぶからか、カフェの面子は皆、俺を「鞍」と呼んだ。とはいえ浸透したのは徐々にで、釈七さんと和以外で、真っ先に呼んだのは軽いノリの蓮だった。  良く言えば親しげ、悪く言うと馴れ馴れしい蓮が、俺の事をそんなふうに司さんに伝えていたとは意外だった。押して来られると引いて拒みたくなる俺だが、蓮に対しては態度のわりに好感を懐いていた。それは彼が、ただ擦り寄って来るだけでなくそういった配慮をする人物だからだろうかと考察する。  線路を跨ぐ歩道橋を渡り駅の西口方面に出ると、東の賑わいとは違った景色が広がる。小規模な飲食店が疎らに連なり、両脇に街路樹の植えられた道路は、前方に見える建物群へ直線で繋がれていた。どうやら、そこが大学のキャンパスのようだった。  近づくにつれ、広大な敷地が露わになる。学舎が複雑に林立し、どこが何に当たるのかさっぱり分からない。他にも図書館や学食といった建物が併設されていると、司さんが教えてくれた。  俺は大学に進学する気は毛頭なかった。推薦で学費免除になるほど成績優秀ではなかったし、生活態度も褒められたものではなかった。奨学金制度を利用すればいいと稲城に薦められたが、そこまでして大学に行きたいとも思っていなかった。目指す夢も希望も無い俺は、専攻を選ぶことさえできなかったし。 「寮、といっても元は普通のアパートだから、場所は敷地外だ。ここから少し奥へ入るんだが」  大学の正門前まで辿り着くと、司さんはそう言ってしばし考える素振りを見せた。 「せっかくだ、ちょっと見学していかないか?」 「け、見学、って。大学を、ですか?」  突然の申し出に面食らう。 「あぁ。興味ないか?」 「いえ、そんなことないです、けど。いいんですか?部外者が勝手に入って」  学校なんて、籍を置かない者が易々と足を踏み入れて良いところではない。高校までの認識しか俺には無いので、常識としてそう考える。 「構わないさ。聴講生も少なくないし、ここの学食なんかは一般の人でも利用できる。まぁ、研究室によっては関係者以外立ち入れないところもあるが、大半は問題ない」  了承の返事もしないうちに、司さんは構内へ足を進め、先を行く。はぐれても困るので、俺も後を追った。 「それに、部屋を見るのに心当たりがある、と言っただろう?該当のアパートに住んでる知り合いがいるんだ。部屋の構造はほとんど一緒だから、そいつに見せてもらえばいい」 「へっ?!」  急にそんなことを言われても、その知り合いとやら言う人も迷惑なのではないだろうか。おずおずと伺うと、司さんは振り向き、笑顔で否定する。 「そういうこと気にするような奴じゃないから大丈夫だ。ただ、論文作成中でまだ帰宅していないと思う。ここに立ち寄ったのは、そいつに部屋のことを聞いてみる目的もあってな」  だとしたら、よけいに邪魔してしまうことになるのではないか。やおら居心地の悪さを感じて、身を竦める。歩幅も狭くなりがちな俺を、司さんが顧みた。 「といっても不安にもなる、か。この時間なら蓮もまだこっちにいるかな」  ポケットから携帯電話を取り出すと、司さんはボタンを押す。耳に当てて短時間のやりとりをし、再びポケットにしまった。 「くーらー!!」  蓮は、すぐにやって来た。明るい髪色の小柄な姿が、遠くでぴょんぴょん跳ねたかと思えば、真っ直ぐに駆け寄り俺に抱きついた。 「いやー、こんなとこで鞍と会えるの嬉しいなー!」  俺の背に回した手を、蓮はバンバン叩く。  蓮は、他人にいきなり触れられると拒絶感を感じる俺にとって、釈七さんに次ぐ例外の相手だった。とはいえ釈七さんとは違う意味で。体温がどうとかいう以前に、彼はじゃれ合いのような雰囲気でしか接しないからだ。小学生同士が意味も無く小突いたり、体をぶつけてきたりするのに似ている。邪気がなく、触れあうことになんの意味も含まないので大して気にならない。悪寒を感じる前につかず離れずを繰り返すので尚更。  今も、もう体から離れて司さんの隣に立つと、向き合った俺の顔を覗き込んでいる。 「で、なんで鞍がここに?」  もっともな質問だが、どこから説明すべきか迷う。言葉を詰まらせた俺に、司さんが助け船を出した。 「鞍が一人暮らしの部屋を探しているというんでな、ルイのアパートを紹介しようと思って。あそこ、確かまだ空き部屋があっただろう?」 「あー、そんでルイのとこに行くわけか」  即座に蓮は把握したようだが、俺はまた萎縮していた。彼等とその「ルイ」という人物がどれほど親しいのかはわからないが、見も知らぬ人間を連れて行って「部屋を見せてくれ」などと言っても、簡単に通用するとは思えない。あの和だって、俺を家に上げたのは兄である光が連れてきたからなのだろうし。友人だろうと突如他人が押しかけたりしたら、きっと快くは思わないはずだ。  俺の躊躇をよそに、二人は先に立って目前にそびえ立つコンクリート建ての棟へ入ってゆく。廊下に並んだドアのひとつの前に迷わず立つと、蓮が数回ノックし、開けた。

ともだちにシェアしよう!