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第三章 北極星(ポラリス)・49
◆◇◆
「ルイってさ、無愛想だけどいい奴なんだ。面倒見よくってさー」
小振りの脚付きカップに乗った、バニラアイスを口腔で溶かしながら蓮が言う。
ルイさんの進言に従って、俺達は学食に移動した。
ガラス張りの開放的なテラスには、午後の日差しが眩しく降り注ぐ。ランチのピークは過ぎ去っていたので混み合ってはいなかったが、遅い昼食をとる者や、飲み物を傍らに書類やノートパソコンを広げている学生の姿がそこそこ目に付いた。
「ふぅん」
蓮と同じアイスのスプーンを口に運びながら、俺は曖昧な返事をする。そうは見えないけど、なんてとても言えない。彼の友人たちに遠慮したわけではなく、本当にどちらとも言い切れなかったからだ。
事実、ルイさんはぶっきらぼうなだけで他人への気遣いをきちんとする人なのかもしれない。蓮に対してずけずけとした物言いだったけれど、煙たがっている様子はまるで無かったし、面倒だと言いながら釈七さんからの頼まれ事は手を抜かずこなしている感じだった。
「後輩、なんだよな、釈七さんの」
それだけなのだろうか、と思って遠回しに念押ししてみる。
「そ。釈七とルイは生物学部なんだ。司は医学部で、俺は社会情報学部ね」
期待した応えでは無かったが、それはそれで驚愕し、司さんの顔を見た。
「司さん、医学部なんすか?!」
「あぁ。といっても、医者になろうという志が高かったわけじゃない。実家が代々町医者でな、一応跡継ぎとして、っていう名目だ」
「司は頭良いからねぇ」
「蓮が適当すぎるんだよ」
司さんがわざわざ蓮を呼びつけた理由が、なんとなくわかった気がした。ルイさんにたとえ悪意が無いとしても、初対面であんなつっけんどんな態度を取られたあと俺と彼の二人だけだったら、おそらくいたたまれない時間を過ごさなくてはならなかったと思う。
「話を戻すと、ルイは釈七の後輩というか、助手のような立場だから。他の奴よりは若干釈七と親密ではあるかもな」
「他の奴?」
「あー、釈七は顔広いし色んな奴と付き合いあるけど、なんていうかこう、広く浅く、っていうイメージなんだよねぇ。ま、ルイも一緒に出掛けたり遊んだり、っていうんじゃなくて勉強上の相棒、って意味の方が強そうだけど」
そう言う蓮のアイスは、すでにカップから無くなっている。俺の方はといえば、乳白色の液体に変わった分が底に溜まりつつあった。
蓮が評するようにルイさんは「いい奴」なのかもしれない。しかしそれは、彼の親しい「友人」にのみなのではないか。
「ところで鞍ってさ、釈七のこと気になるの?」
「……へっ?!」
思案に暮れている間に、テーブルを挟んで蓮の顔が近づいていた。不意を突かれた格好で、困惑する。
「あっ、あぁいや!!ほら、バイトで大分世話になってるしっ!」
慌てふためいた俺に、蓮が楽しそうな笑顔を向けた。
「釈七も今、鞍がお気に入りみたいだからねぇ」
さらっとそんなことまで言うので尚更どぎまぎしたが、司さんがフォローのような現実感を呼び起こすようなことを付け加えた。
「世話好きだからな、新人には手を掛けてやるんだろう」
「マメだよねぇ釈七は。面倒見てもらった後輩も多いんじゃない?」
後輩、ということはルイさんもなのか。バイトで慕われている釈七さんを見れば、大学でも同じなのだろうということは大体わかる。
だがそれを思うと、また漠然とした不安が過ぎった。
触れてみたいと思ったのは俺が初めてだと、釈七さんはあの日言った。下の名を呼ばせるのも、合い鍵を渡したのも。けれど、俺は彼と出会ってまだ間もない。図らずも接する機会が増え、あんなこともあったから、今まで釈七さんが気に掛けてきた相手より少し「深い」ような気がしただけなのではないか。それを思慕と思い込んでいるだけなのでは。
だとすると、俺より以前に釈七さんに世話になった人は俺をどう見るのか。恩を返そうと、本人が他の「新人」にかまけている間も懸命に動いている人は。
思い浮かべたルイさんの顔に、キルトさんの面影が重なった。
「お待たせしました。では、行きましょうか」
影のようにゆらりと、ルイさんはやってきた。俺たちが席を立ち空いた食器を返却口に置きに行く間にも、さっさと先頭に立ち出口に向かおうとする。
「あっ、あの!」
ルイさんに続いて蓮と司さん、そしておたおたと彼等の最後尾につこうとした俺は、急に二の足を踏んで皆を呼び止めた。
「や、やっぱいいです。俺、もう帰ります」
立ち止まって振り向いたルイさんの表情には、やはりなんの感情も浮かんでいるようには見えなかった。
「どうしてですか?」
先刻俺を牽制するみたいな言葉を投げた時同様、彼は心から解せないとばかりに首を傾げる。
「いやその……迷惑かな、って」
今日初めて会った人間を部屋に上げる、という行為もそうだが、なにより俺自身に後ろめたい気持ちがあった。
蓮の言い方からして、ルイさんは釈七さんのことを慕っているようだ。さっき研究室で「尊敬している」と蓮は口にしていた。渋々ながら、不在の釈七さんの分まで研究を続けていることでもそれは裏付けされる。
その釈七さんと俺は、あろうことか身体の関係を持ったのだ。
あの、俺たちが水族館で遊んでいた日も、彼は研究室に籠もっていたはずだ。
そんな俺が個人的な用件で、彼を頼るのはどうしたって気が引ける。もし、もしも、彼が釈七さんに好意を寄せていたら。
同性に恋する人間が、身近に何人もいるとは思えない。が、まったく無いとも言い切れない。仮に「恋」という感情ではないにしても、信頼しその人のために手を尽くしている相手が、こんな男に心を傾けていると知ったら決して面白くはないと思う。
その上俺は、釈七さんと光とを秤に掛けて、決めきれずに「一人暮らし」をしたいと考えた。それ故の「部屋の下見」を願い出るなんて。
ルイさんは踵を返し、すたすたと俺に近寄った。焦って、わずかに後じさりする。
「貴方が必要ない、というのであれば結構です。けれどもし、僕に気遣って断っているならそれは無用ですよ」
赤茶けた瞳が見上げる。小柄な蓮よりはさすがに上だが、ルイさんも身長はさほど高くない。
目線を少し下げる位置にあるルイさんの顔は、見れば見るほど人形じみている。どこか血の通っていないような美しさ。しかしその無感情な面差しが、ふと柔らかく緩んだように見えた。
「釈七から貴方の話を聞いた、と言ったでしょう。僕がそれを覚えていたのは、貴方の話をする釈七が、彼に珍しくとても嬉しそうだったからです。だから、僕も貴方には若干興味がある」
全くぶれない単調な口振りだったが、挑発的な響きはない。
俺の知らない釈七さんを良く知る立場、という点で、光とキルトさんの関係を彷彿させたルイさんだが、少なくともいつか俺を見たキルトさんのような、軽侮を帯びた様子は見受けられなかった。
「僕のことは、呼び捨てでいいですよ。もしかしたら、隣人同士になるかもしれないですしね」
「りん……じん?」
「えぇ、空いているのは僕の隣の部屋です。無論貴方がそこで良ければ、ですけど」
そこまで言うと、ルイさんは早足で先頭に戻った。毒気を抜かれた気分で、俺もすごすごと後に続く。蓮が歩幅を狭めて、俺に並んだ。
「ね、面倒見いいでしょ、ルイ」
「蓮、聞こえてますよ」
後ろも見ずに言ったルイさんの言葉に蓮は肩を竦めたが、改めて念押しされた言葉には、俺も頷かざるを得なかった。
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