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第三章 北極星(ポラリス)・50

 アパートは、大学を出て歩いて数分、という場所にあった。敷地を囲む塀沿いに進み、脇道を入ると二階建てや三階建ての似たような建築物が密集している。一般住宅もぽつぽつと混じるが、アパート形状のものがかなり多い。すべてが寮として借り上げられているわけではないだろうけれど、学生の入居者を見越して建てられたのは明らかだ。  そのうち、白い二階建てのものにルイさんが入ってゆく。といっても、アパートなので当然エントランスや玄関ロビーは無い。犬走りを通って、一階に並んだドアのひとつを開けた。 「ここです。どうぞ?」  中はどこにでもありそうなワンルームだった。通路に備え付けられた小さな流し台と電熱器。下にはワンドアの冷蔵庫。こういう部屋のキッチンと言えば、想像したとおりこれが通常だろう。  その前を抜けると、八畳ほどの板張り、なのだろうが。  広さの割には大きめの本棚に、みっしりと詰まった本が圧巻だった。机とベッドが他には置かれていたが、それのみで床が埋まり、男四人が入ると座る場所の確保も難しい。 「へぇ、ルイの部屋初めて入った」 「それはそうです、蓮に年中来られたのではうるさくて読書も集中できませんから」 「ひどっ!」  蓮と軽口を交わして、ルイさんは俺を見た。 「間取りはほぼ同じはずです。どうですか?」  新築、とは言わないが、まださほど築年数は経っていないように見えた。内装は綺麗で、エアコンも完備されている。俺はこんなに書物を運び込む必要はないので、床面積は十分すぎるくらいだ。 「問題ないと思います。ありがとうございます」  頭を下げると、ルイさんの口元が少しだけ笑みを浮かべた、ような気がした。 「お茶を淹れますから、自由に見ていて下さい」 「あ、そーいやさー、釈七の家には行ったことあんの?ルイ」  先程の流れで思い立ったのだろうが、蓮の質問に俺の方がぎくっと背筋を強ばらせた。 「いえ。玄関先まではありますが、中には」  茶を注ぐ手を止めず、なんの感慨もなさそうにルイさんが答える。研究の相棒であるこの人でも、中に入ったことがないというのは意外だ。しかし更に驚愕するようなことを、蓮が付け足した。 「やっぱまだ誰もないんだなー」  誰も、ということは蓮や司さんもない、ということなのだろう。まさか自分はあるなどとは言えず、口を噤む。 「少し、気にしているんじゃないですか?まだ『慣れない』というか」 「……あー……」 「蓮、ルイ」  司さんがちらりとこちらを見て、目線で俺を指した、みたいだった。二人の会話は、それを合図に途切れる。  「慣れない」とはどういうことだ。一人暮らしにだろうか、それとも人を自宅に上げることにだろうか。いや、俺を招き入れた釈七さんにそんな素振りは見られなかった。それに、さっきの司さんの視線は一体何を意味しているのか。頭を巡らせても、思い当たることはない。 「こんなものですみません。僕もいつもはこの部屋に人を呼ばないので」  言ってルイさんは、紙コップに入った紅茶を振る舞ってくれた。 「実験で使用したものが、余っていてよかった」 「実験?!」  蓮が目を丸くして、まじまじと手元の白い紙コップを眺めた。 「といっても、変なものではありませんよ蓮。入れたのは食品ですし」  自分の分はマグカップに淹れて、ルイさんは紅茶をゆっくりと啜る。 「実験、ていえば。大学でどんな研究してるんすか?」  興味が湧いて、訊ねてみた。 「そうですね……生物反応や遺伝子、生理現象などでしょうか。釈七は食物と人体の関係とその環境とか、がメインですね」  別に釈七さんに限定して訊いたのではなかったが、ルイさんはそう言い添えた。なにか勘づかれたかと、茶に口をつけながら小さくなる。  視線を逸らし書棚に並んだ背表紙に目を遣ると、俺でもなんだか関心を引かれるタイトルも多い。人体の構造、クローン、アンドロイドの可能性、再生細胞……研究に使う本ばかりではないのかもしれない。分野は多岐に渡っている。 「なんか、頭の痛くなりそうな本ばっか並んでるなぁ」  蓮がすっと俺の隣に来て、一緒に蔵書群を見上げていた。 「そう思うのは蓮だけじゃないんですか?」 「えー、鞍も思うでしょ?」 「うーん……俺は、ちょっと面白そうだなって」  蓮が仰天したような声を上げる。それを遮ったルイさんが俺に聞き返した。 「面白そう、ですか」 「はい。俺に知識なんてないですけど、なんとなく」 「よかったら貸しますよ。遠慮なく持っていって下さい」 「え、いいんですか?」  本棚から、ルイさんの顔に目を戻す。今度こそ彼は、紛れもなく微笑んでいた。 「貴方と話をするのは楽しそうですね。良き隣人になれるのを、期待しています」  本を一冊拝借し、礼を述べてから俺たちはルイさんの部屋を後にした。部屋の主はそこに留まり、三人で道に出ると、蓮もその場での離脱を告げる。 「ごめん、俺夕方からバイト入っててさぁ」  手を振り別れ、来た時と同じく、俺と司さんの二人だけになった。 「じゃあ、決めていいんだな?」 「はい。なんかルイさんも、蓮の言うとおり穏やかな人みたいだし。有難いです」 「そうか、だったらあとで記入書類もらってくる」  よろしくお願いします、と司さんに頭を下げる。彼は少し照れたように、 「いや、お前の役に立てて俺も嬉しいよ」  と、たおやかな笑みを浮かべた。 「引っ越しも手伝うから、なんでも言ってくれて構わないからな」 「や、引っ越し、っていっても。俺、荷物はほとんど無いんで」  ルイさんのように膨大な書籍があるわけでも、家具類があるわけでもない。身一つで十分だ。そう伝えると、司さんは訝しげに首を捻る。 「必要なものは新たに買いそろえるのか?」 「そ、ですね。つってもそんな予算ねーから、徐々に、って感じですけど」 「何かこれだけは欲しいものとかないのか?」 「んー……」  細かなものはともかく、寝床は確保しなければならない。布団が一組あれば、とも考えてはみたのだが。 「ソファ、くらいは置こうかな」  ソファがあれば普段は座れるし、そこで寝転がることもできる。兼用には便利だ、と思いぽつりと洩らすと、司さんが得たりと頷いた。 「それなら、丁度いい。うちに使っていないソファーがあるから、お前にやるよ」  気前の良い提言に、俺は瞬時固まってからぶんぶんと首を振った。 「いや!いいですよ!!司さんにはただでさえ世話になったのに、その上……」 「気にするな。ソファだって使わずに遊ばせておくなら、使ってもらった方がいいだろうさ」  そう言われても、躊躇する。ソファなんて、ホームセンターで買っても決して安価ではない。 「そうだ、お前の時間さえよければ、今から見に来るか?俺のマンションもこの近くなんだ」  そこまで言われては、なんだか断り切れない。俺はまた流されるままに、司さんのマンションについていくことになった。

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