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第三章 北極星(ポラリス)・53

「司さんの眼って、その、なんかあるんすか?」  食べ始めのときと同じように合掌で食事を終えた彼に、またぞろ頭を過ぎった疑問を恐る恐るぶつけてみた。  不思議には思っていたが、訊けなかったのだ。色の濃いレンズで保護しているのだから、片方だけ弱視か何かなのだろう、という予測はついたし、もしそれを劣等感として捉えているとしたら言いたくないかもしれない。それでも、さっきの笑みを目にしたらどうしても気になった。「そちら側」には何があるのだろうと。 「あぁ、左眼か。光に弱くてな」  やはり、と得心する。予想はついていたのに、わざわざ答えさせてしまったことを申し訳なく思う。考えてみれば、部屋を暗めにしてあるのもそのためなのだと察しがついた。 「すみません、言いづらい話を」  そろりと食器を下げ、洗浄機に運ぼうとした、そのとき。 「気にしなくていい。それが嫌だと思っているわけじゃないから」  手を伸ばし、テーブルを挟んで僅かに顔が近づいたタイミングで、司さんは寸時眼鏡を外して見せた。  そこには、思いもよらない形状の瞳があった。垣間見えただけだが、まるで宝石のような、水色。あまりの衝撃に、言葉を失う。 「な?ガラス玉みたいだろ」  くすりと笑って司さんは、再び眼鏡をかけ直す。  どきどきと、鼓動が激しくなった。できる事なら、もう一度。 「あ、あの!も、っかい……その、よく見せて、もらえません、か?」  相手は驚いたように目を丸くする。いくら負い目に感じていないとはいえ、こんなことを頼まれれば不審に思っても無理はない。 「……ぁ……すみま、せん。駄目ならいい、んですけど」  己の嗜好を恨めしく思った。雑貨店に並ぶ切り子の器を見せてもらうのとはわけが違うのだ。反省して、皿を重ねる作業に戻る。 「いや、構わない。外もだいぶ暗くなってきたから」  ところが司さんは、にこりと笑って承諾してくれた。食器を入れた洗浄器のスイッチをセットしたあと、俺をリビングのソファへと誘う。  窓の厚手のカーテンが、電動で閉まる。更に暗さを増した部屋を照らすのは、いくつか置かれた間接照明の揺らめく灯りのみとなった。 「お前が、外してくれないか?」  ソファに並んで座った司さんが、そっと顔を近付ける。怖々とツルの部分を摘まんで外してみた。  伏せた長い睫毛が上がる。外国人の碧眼の、もっと淡い色という感じだろうか。カラーコンタクトを乗せたような色とはまるで違う、澄んだ水晶体。ガラスみたいでありながら明らかに義眼でないのは、涌き水の如く湛えられた潤いで分かる。そこに小さな泉でもあるかに見える美しさ。 「……すげぇ、ほんとに綺麗」 「そんなに気に入ったのか、この目」 「すみません。俺、その、ガラスとか見るの好きで、それで…… っ?!」  見入っていた瞳が、急に近づいた。互いの鼻先同士が掠めあう。抱き寄せられたためだと気付く方が遅かった。手から落ちた眼鏡が、床で繊細な音を立てる。 「つっ、司、さん?」 「これほどお前に見つめてもらえるなら、こんな目をしていた甲斐があったな」  柔らかな感触が、自分の唇に一瞬触れた。離れてもまだ視界には入らないそれが、甘く囁く。 「嫌、だったか?」 「いっ、嫌、ではないです、けど。ちょ、っとこういう、のはっ!」  懸命に声を抑え、抵抗した。俺の目に映るのは、だがいまだ清水のような瞳だけで。 「こういうのは、駄目か。俺ではこういう相手にはならないか」  頬をつっと、指が滑った。何が起こっているのか、俺には全然把握しきれない。 「え、ぇっと、そんなことはない、んですけどっ!俺、その……司さん、のことはまだ、よく知らない、しっ」 「宮城の兄貴も釈七も、最初はそうだったんじゃないのか?そして誰が好きかはっきりしないから、お前は一人で暮らすことにした」  正確な指摘が、胸を刺す。釈七さんから話を聞いているなら、司さんでなくとも憶測はつくだろう。目線を下げると、頬に沿われた彼の指先が見える。 「ライバル多そうなのは分かってるし、俺は分が悪いのも知ってる。けれど、お前の心に迷いがある以上、俺も候補の一人に入れて欲しいな。迷惑か?」 「めっ、迷惑なんて、そんな!」  きっぱり断れない自分に苛立つ。だけど。 「好きだ」と思ってもらえるのは、嬉しい。嬉しいと感じることに抗えない。  いままでこんな経験なかったのに、短い間に怒濤のように寄せられた好意。否応なく沸き上がる自惚れに、自身が一番戸惑う。  幾度となく裡から責められる言葉。何故、俺なのか。  お前はこんなにも、他人から好かれる人間ではないはずだ。なのにどうして。  内なる自分に、胸倉を掴まれ揺さぶられる感覚。わからない。こんなのはまやかしだ。冗談もからかいも、見極められなくなっているだけだと。 「困らせてしまったか。すまない」  唇を噛んだ俺の髪を、司さんがそっと撫でた。謝られることなどない、謝るのは自分の方だ。目を瞑って首を横に振ると、目尻に滲んだ水滴がこめかみを伝って飛び散った。 「いえ、俺こそ。すみません……嫌だ、っていうんじゃないんです」  涙で滲んだ目を上げた。ラムネのビー玉みたいに水気を纏った淡い青色の眼球が、まだそこにある。懊悩も混乱も、瞬間その瞳に吸い込まれてしまうように思えた 向かい合ったとたん、司さんの眼に見入ってしまう。我知らず、指を伸ばした。 「それほどまで気になるのか。外せるものなら、お前に差し出すんだがな」  差しのべた手をすかさず握って、司さんは俺の指先に軽く口づける。 「これがお前を惹きつける、唯一の俺の持ち物なら」 「いっ、いや!あの、司さん優しいし、温和だし。別に眼だけがどう、っていうんじゃないんです!……でも」  口ではそう言ってもこれでは本当に、瞳だけに興味を懐いているように自分でも感じていたたまれなくなった。 「ただ、なんだか不思議で。さっきも言いましたけど俺、ガラス器とか見るの好き、なんです。でも特に自分の手元に置きたい、ってか、集めたいとか思ってるんじゃなくて、その」  釈七さんの部屋に置いてきた切り子の皿のように、思いがけず使えるのも良い。だが通常は、ひたすら眺めるだけで満たされるのだ。それは。 「多分。ガラスを見てる間は、それだけで他の色んなことを忘れられるから、なんだと思うんです。変かもしれないんすけど、煩わしさとかごちゃごちゃした考えとか、透明で光を通すものがすぅっと抜き取ってくれるような気がして」  司さんの眼には、同じ効果を感じる。たどたどしいながらもそう伝えると、彼は少し意外そうにほぅ、と息を吐いた。 「そう、かもな?この目も、邪気を封じる水晶みたいな力があると言われたことがあった」 「邪気を?」  言われてみれば、それも然りと思う。作り物ではない、天然の鉱物に近い。 「お前の中の邪も、全部俺が取り込んでやるよ」  相手の口元にある指を甘く噛まれた。立てられた歯に、骨の髄が打ち震えるような蕩ける痛みを覚える。 「っつ……俺、の、ですか?」 「あぁ。お前のすべてを取り込んでみたい。そうできれば、の話だけどな」  悪戯っぽく笑って、司さんは手を離した。どう返答をすべきか迷う。 「本気、なんですか?」  喘ぐようにようやく口から出たのは、それだけだ。 「嘘だと思うか?あまり知らない相手だから、信用ならないと?」 「いっ、いや!そうじゃない、んですけど」  先刻、「冗談は得意じゃない」と言った彼の声に、偽りの匂いはなかった。そしてもうひとつ分かった。俺は、おそらくこのひとには好意を持っている。  無論、光や釈七さんに対する想いとは違う。というより、彼等にしてもそれぞれ同じではないのだけれど。瞳の魅力は確かに理性を越えたところにあるが、そうじゃなく。  儚さ、だろうか。光たちが抱える不安や翳りとは別の、それこそガラス器のように、手から零れ落ちれば粉々に砕けてしまいそうな脆さ。だからこそ、美しくもある。邪気を封じるという眼の奥底で、司さんは引き込んだ穢れや澱みを己の中に押し入れているのではないだろうか。澄んだ水流の如き色の下には、どくどくと赤い血が流れていそうで。  俺の存在はむしろ、その司さんの傷を抉ってしまうのではないかと思った。吸収された俺の邪気は、許容量の限界を突破して破裂させるのではないかと。  だから、本気ならばよけいに心苦しい。ただでさえ、自分の思慕がどこにあるのかわからないのだ。司さんの深層にまで触れてみたいと思えば思うほど、今の俺では彼を壊してしまいかねない。 「だったら、聞くだけでも聞き届けて欲しいな。俺は、お前が好きだ。それはちゃんと伝えたよ。焦ることはないから」 「すみませ……ありがとう、ございます」  喉と鼻の奥が詰まって、苦しくなる。抑えられたものがこみ上げて、また溢れそうだった。 「無理に引き止めて嫌われるのもなんだしな。そろそろ送ろう」 「ぁ、いえ!一人で大丈夫なんで」 「そう言わず、送らせてくれないか?もう少しお前と二人きりで話がしたいし。ちょっと、見せたい場所もある」  強い灯りに晒せない瞳を覆うため、司さんは床に落ちた眼鏡を拾う。再び隠れてしまう水色が名残惜しくて、もう一度覗き込もうとした。 「うん?左眼に映すのは、しばらくお前だけにしておこうか」  くすりと笑んだ唇が近づく。 「俺もあと一回、な?」  流れるような仕草で、しっとり絡まるようにそれが俺の唇へ重ねられた。

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