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第三章 北極星(ポラリス)・54

◆◇◆  薄闇に慣れた目にも、夜道は暗い。外灯を頼りに、川沿いの道を進んだ。駅の西側は全然来たことがないので、土地勘は無い。司さんが肩に添える手に導かれるままだった。 「すみません、結局送ってもらって」 「構わないさ。俺が連れてきたんだし。思いがけず、美味い飯も食わせてもらったしな」  最初から変わらず、司さんは穏やかに笑う。色白なので、夜目にも綺麗な笑顔が映えた。 「見せたい場所もある、と言っただろう。この先だ」  司さんの言うとおり、俺達は昼間の行程とは違う……少々遠回りをしていた。俺にはもはや、どこがどこだかも分からない。  しばらく進むと踏切が見えたので、線路を辿れば駅方面には出られるはずだった。あまり彼のマンションから遠ざかるのも悪い気がしたので、ここで良いと告げようとしたとたん。 「こっちだ」  肩を抱かれた状態で、沿道から細い路地に入る。連なっていた住宅が、ついと途切れた。その代わり。  わずかに見えるアスファルトですら埋めてしまうかのように、丸くふんわりとした小花の塊が群れて両側に咲き誇っていた。季節には若干早いと思ったが、土の質によって変わるという色は、見事なまでに鮮やかだ。青紫、赤紫、まだ淡い黄緑のもの。隣に立った案内人の、隠された瞳と同じ水色も。  その先に見えるのは、どこかのグラウンドかゴルフの打ちっ放しだろうか。煌々とした照明の光がこちらまで届き、寒色の水彩画めいた花を仄白く照らしている。  さらに上空には、朧月。輪郭はぼやけているが、輝きは健在。  今は雨粒こそ纏っていなくとも、いずれ降り注ぐ天の恵みを待つように、重たげな頭を無数にほころばせている。 「規模はそれほどではないが、なかなか見応えがあるだろ?」  桜でさえこの年初めて意識して見た俺は、他の花なんて尚更気にして見たことはない。  紫陽花の群生がこれほど美しいとは、思ってもみなかった。 「鞍は星とか夜景、好きなんだってな?」 「え、誰から聞いたんすか、そんな話」  釈七さんが言ったのだろうか。否、彼と見た夜景は胸を痛めてばかりだったはずだけれど。 「秘密。好きな相手の情報くらい、手に入れておくべきだからな」  人差し指を口元に当て、司さんは悪戯っぽく言った。 「俺の左眼も大分気に入ったみたいだから、これは多分好きだろうと思ってな」 「え、えぇ。ほんと……綺麗、です」  目の前の風景に、俺は率直に見とれていた。 「俺、ガラスもですけど、妙にこう、透明なものとかキラキラ光るものとか好きで。おかしいですよね、女の子じゃあるまいし」 「そうでもないさ。部屋でお前が言ったとおり、身の穢れが落ちるように思えるんだろう。人間は元より、綺麗なものが好きだからな。無意識のうちに憧れる、とでもいうか」  もうすぐ梅雨に入る。水滴を湛えた紫陽花もまた煌めくのだろう。 「司さんは、優しいですよね」 「そうか?それは、好意を持った相手に対してだからじゃないのかな。優しくなれるのは、鞍だからだよ」  流れる水のような司さんの言葉に戸惑う。  光も釈七さんも、俺だけは「特別」だと言う。まだ深い付き合いでもない司さんにまで言われては、畏れ多いというか、もったいない。 「……どうして、なんですか?」 「何がだ?」 「どうして、皆俺に優しくしてくれるんですか?司さんも、光や釈七さんも。それだけじゃない、蓮や、ルイさんだって」  つい最近まで、誰かに優しくされたという実感はなかった。もしかしたら以前もそうされていたのかもしれないが、「好意」として受け止めたのは、彼等に出逢ってからだ。 「それは、お前が皆に気を使っているからじゃないのか?今までだって優しく接してもらったことはあるだろうに。気付けるようになったのは、お前が逆に皆のことを気にするようになったからだろうな」  他人を拒絶し、見ないようにしていた頃には、誰かが自分に向ける優しさも見えなかったということか。だが、受け止めるということは。 「俺は、前より自分が臆病になったんだと思います。誰かに嫌われるのが怖くなって」 「それは、お前が大切に想える人が増えた、ってことだよ。お前だけじゃない、皆嫌われたくなくて、怯えながら接してる」  静かに染み入る雨のように、司さんの声は降り注ぐ。静謐な重みを含んで。 「けどな、それだけじゃ相手を大切にしているとは言えないんじゃないか?」 「たいせつ、に?」 「そうだ。嫌われるのが怖くて一線を踏みとどまっているのなら、相手はもどかしくも思うだろう?大切に思うなら、嫌われたくないのなら、それ以上の想いで一歩踏み込む必要もあると、俺は思うよ」  司さんが言っているのは、自分のことだろうか。それとも、光や釈七さんか。  何にしても、俺は確かに尻込みしている。  好意を好意として受け止めるのは良い。だが、全部鵜呑みにしていいかどうか自信がない。あの手紙のように。相手を知ろうとして、傷つけてしまうのではないか。距離感も分からず近づいたら、迷惑ではないだろうかと。 「……俺は」  ひどく、悲しくなった。  大丈夫だと、皆が腕を広げてくれる。けれど俺の手にはナイフが握られていて、なにも考えずに飛び込んだら相手を刺し貫いてしまいそうで。そのくせナイフを手放す方法も知らずにいるのだ。 「俺は、まだ……自分の気持ちが自分でもよく判らないんです。どこまで踏み込んでいいのかも」  泣きそうになるのを堪えて、唇を噛んだ。握った拳が震える。 「鞍。いいんだ、まだ」  身動きできなくなった俺を、司さんがそっと抱き寄せた。目の前の胸に縋ってしまう、俺はやはり卑怯だ。 「自分ひとりで考える必要はないさ。ある程度は歩み寄れることではあるし。わからないことは無理に一人で悩まず、周りに頼ってみるのも手だろう。誰しも一人で考えるのは大変だから」 「……っ、すみません。有難う、司さん」  背を擦られて、気持ちが落ち着く。しかし「好きだ」と言ってくれた彼に、この先自分がどうすべきかを相談するのは見当違いな気がしていた。たとえ邪気を吸い取るという左眼が、煩悩さえ取り除いてくれたとしても。 「どうせ礼を言われるなら、これくらいで、な」  こめかみに、瞬間唇が触れる。泣きそうになったのもこの場でキスをされたのも恥ずかしい。蒼い濃淡の花に彩られた景色は名残惜しかったが、そそくさと踵を返すと、早足で線路尾沿いの道まで戻った。

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