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第三章 北極星(ポラリス)・55

 やがて辺りの灯りが増え始め、商店街の近くに出る。今度こそここまでで良いと言おうとした時。 「鞍?」  すっかり見知ったバイクが、往く道の先に停まる。 「釈七さん?!」 「ずいぶん遅かったな。部屋、見られたか?」  横で司さんが軽く手を上げるのが見えた。もしかしたら知らぬ間に、彼が釈七さんをここまで呼び寄せたのか。思い返せば道すがら、寸時だがポケットの携帯を弄るところも見掛けた。 「う、うん。そうだ、ルイさんって釈七さんの後輩の人にも会った」 「空き部屋、ルイの隣室なんだ」  司さんが補足する。 「ルイの?あいつ、ちょっと変わってるだろ」 「ん。でも、そんなでもなかった、ですよ?部屋も見せてくれたし、お茶も御馳走してくれた」  彼等の関係性が今ひとつ理解できかねている俺は、なんとなく無難な返しをする。ところが俺の返答を聞くと、釈七さんは俺ではなく、司さんに視線を送った、ように見えた。妙に不可解そうな表情で。それを受けた司さんは、少しだけ顎を引いた。 「そうそう、鞍に俺の部屋のソファを譲ろうと思うんだ。釈七、運ぶのを手伝ってくれないか?」 「あぁ、構わないが」  まだ何か考え事をしているようだったが、釈七さんはすんなりと承諾する。 「お、お願いします」  頭を下げると、ようやく彼は笑みを浮かべた。 「いいよ、俺で力になれることならな」 「釈七、ここからはお前が送ってやれよ」  司さんが、とんと俺の肩を押す。最初からそうすると示し合わせていたのか。変な気を遣わせてしまったのだろうかと、不安になって振り向いた。 「引っ越したら近くなるから、俺とはいつでも会えるだろ?それとも、釈七が嫌ならこのまま俺が送るけど」 「おいおい、勝手に嫌がってるような言い方すんなよ」 「皆怯えて誰かと接している」と言った司さんは、あるいは彼自身も踏み込むのを躊躇している部分があるのかもしれない。俺にも、釈七さんにも。 「あの……じゃ、ぁ、釈七さんさえよければ。今日は本当にありがとうございました、司さん」 「いや、こちらこそ。じゃ、またな、鞍」  執事のような彼は、立ち去る姿も颯爽としている。透き通るような水色の瞳の余韻が過ぎった。あの眼を見る日は、再び訪れるだろうか。 「んじゃ、後ろに……と言うところだが。少し歩かないか、鞍」  どうしてか、俺もそうしたいと思っていた。頷いて、バイクを押す釈七さんの横に並んだ。 「お前、こんな時間まで司と何してたんだ?」  バイクがあるので、普段より歩みが遅くなる。狭い歩幅に合わせて、会話もいつもと比べるとゆっくりになった。 「何、って。部屋紹介してくれたお礼に、夕飯作って食べてもらってた」 「へぇ、あいつの家行ったのか。すごかったろ」  自分の部屋には人を上げないと言われていた釈七さんだが、他の人の部屋はあちこち訪れているらしい。 「うん、すっげー広くてびっくりした」 「だろうな。あんな部屋に一人で住んでるんだから、寂しいもんだと思うが」 「そうかもな」  司さんと話すのは若干緊張して敬語をなかなか崩せなかったせいか、釈七さんには自然と通常の言葉づかいになった。意識していたわけではないし、自覚したのは道をだいぶ進んだあとだったけれど。 「お前は、独りで平気なのか?」  しばらく黙ってから、釈七さんがぽつりと訊く。 「……平気だよ?中学出てから最近まで、ずっと独りだったし」 「そうか。ま、寂しくなったらいつでも会いに行ってやるからな」  ハンドルを握った片手を外すと、釈七さんはぽんぽんと俺の頭を軽く叩く。  寂しくなったら。慈玄の寺に居候を始めて、宮城家へ転がり込んで。一年ほど、自分は「独り」ではなかったのだと改めて気付く。  先に誰か帰っていれば「おかえり」と言われ、反対に自分が在宅していれば「おかえり」と言い。同居人の分まで食事を用意し、それまでのように適当とはいかないので献立を考え。休日は惰眠を貪ることもなく、掃除し、洗濯をし。「今日はなにかあったか」と問われたり、それに応えたり。  当たり前になりつつあったそんな生活が、一年前に逆戻りするのだ。暗い部屋に帰り、自分の分だけ適当な飯を食い、ひたすら眠る。  寂しくは、ない。それこそ釈七さんも司さんもルイさんも、皆同じなはずで。  寂しくはないが、マンションやアパートから漏れる灯りに、そうしたいくつもの「独り」の居場所が存在するのだと思うと、わけも判らず胸の奥がきゅっと締め付けられる。そこに暮らす住人だって、きっと「寂しい」なんて考えることは少ないだろう。司さんが「もう慣れた」と言ったように。考えないからこそ、慣れてしまうからこそ、小さな棘がちくちく刺さる。  知らず知らずのうちに、ハンドルに戻った釈七さんの腕を……正確には袖を、ぎゅっと握っていた。 「そーゆうことされると、なんか心配になるけどな」  前を向いたまま、釈七さんが笑った。 「……釈七さん?」 「ん、何だ?」 「俺は、優柔不断、なのかな」  どうも視線を交わせない。釈七さんは前方を向き、俺は、路側帯の白線を目で追いながら歩く。故に、彼の表情は見えず。 「なんの話だよそれ。ファミレスのメニューでも決められなくなったか?」 「っ、そんな冗談なんかじゃないよっ!!」  思いがけず強い調子で否定した自分に、自分でも驚く。狼狽えて上げた目線の先に、釈七さんの顔があった。 「どうしたんだよ、鞍。なんかあったのか?」  言うべきかどうするか迷う。けれど、言わずに一人暮らしを始めたら自分だけでは混乱がいや増しそうだった。 「司さんに、好きだ、って言われた」 「は?」  目を剥いたところを見るに、釈七さんにもまったくの予想外だったらしい。再度離した片手で今度は、自分の頭を掻く。困惑する姿に、キスをされたとまではとても言い添えられなかった。 「あいつ……」 「釈七さんに、俺の事相談されたって。それは?」 「あぁ、本当だ。古い付き合いだからな。まぁ、お前みたいなの確かに好きそうではあったが」  古い、ということは、大学に入ってからの友人ではないということか。たかだか三、四年ほどでは、そんな言い方はしないのではないか。 「それはともかく。鞍は、どう思ったんだ?」 「どう、って」  戸惑ったのは事実だ。だけど、嫌だったのではもちろんない。 「そう言ってもらえるのは嬉しい、よ?あんまり言われたことなかったし、光や、釈七さんの時と同じで、正直、嬉しい」  嘘を言っても仕方ない。そこは、感じたまでを話した。 「だけど、やっぱりよく分からない、って思った」 「それで良いんじゃないか?否定でも肯定でもなく。まだ司のこと、あまり知らないんだろうしな」  釈七さんの口調は至って静かだ。俺に、感情の動きは読み取れない。 「それもある、けど。釈七さんのことも、光のことも。自分の気持ちが、よくわからなくて」  思えば、先刻司さんに伝えたのと同じ言葉になっていた。 「そりゃそうだろ。短期間に突然いろんな奴から好きだなんて言われりゃあな」  当然のように言って、釈七さんはぼやけた月を見上げた。 「いいんだ、ゆっくりで。お前が、お前自身の気持ちに整理がつくまで。他の奴はしらねぇけど、俺はずっと好きなままだしな」 「ずっと?」 「あぁ。お前が訊いたんだろ?『俺をずっと好きでいてくれるか』って。あのときした返事は嘘でも適当でもねぇよ。ずっと、好きでいてやる」  キルトさんと光の逢瀬……実際は違ったのかもしれないけれど……を目にして、頭が真っ白になったあの日。水のシャワーを浴びて冷えた俺の身体を、タオルで包み込んでから釈七さんがくれた応え。俺を落ち着かせるためでも、宥めるためでもなく、彼は、そう言ってくれたのだろうか。  あのときは俺も前後不覚で、どうしていたかもよく覚えていない。けれど、もらった返事に心から安堵したことははっきり記憶している。何の根拠もなく、彼ならばそうしてくれるとその瞬間は思えた。  もし、もしも……本心だというのなら。 「俺はな、お前を好きでいる自分が好きなんだ」  誰かに心を許すのに慣れない、人を愛するのに慣れない。釈七さんを知る人たちはひっそりと口にした。  俺には、そんなふうに見えない。  司さんが優しいのは、相手が俺だからだという。ならば釈七さんも……彼にとって、俺はそんな「特定の相手」になり得ているのだろうか。 「ほんとに……ほんとに、それでいいのか?」  しっかりと、釈七さんは頷く。月に照らされ、スローモーションみたいに緩やかに。 「こういう立場って、振り向かない誰かを想い続けるより辛いんだろうな」  経験があったわけじゃない。他人を知ろうとしなかった俺に、恋い焦がれる相手はいなかった。幼い頃淡い恋慕を懐いたことがあったような気もするが、遠い昔すぎて思い出せない。けれど、思いがけず好意を寄せてくれた誰かを拒まなくてはいけないなど、本当に予想だにしなかった事態だ。「ずっと好きでいる」方が、よほどすんなり受け入れられる気がする。 「そうかもな?悪いな、そんな辛い思いさせちまって」 「うぅん。想ってくれるの、すごく嬉しいのに、辛い、って感じてしまう自分が悔しくて」  できる事なら、皆の心情を汲みたい。しかしそれをしてしまえば、歪みが生じることくらい俺でもわかる。仮に釈七さんのように「好きでいること」自体が満足だと本人が言ったとしても、自分自身はたった一人だ。中途半端に期待させて引き止めれば、相手の新たな道への妨げとなる。 「決めなきゃならない、って思うとな?でも、今はいいんじゃないか?慣れないんだろう、お前も」  釈七さんが自ら、その言葉を放つ。彼の真意は……どういう理由から「慣れていない」のかはまだ分からない。だけど。 「だったら、そのまま受け取るだけでいい。それだけでも、結構相手は喜ぶもんだぜ?いきなり決めなくていいんだ」 「よくないよ、引きずったままにしとくなんて。結局逃げてるだけだろ?だから司さんにも、気を持たせるようなことに」  その司さんの声が過ぎった。一歩強い気持ちで踏み込まなければ、相手を大切にしていることにはならないと。 「おい、逃げるのと受け止めるのは違うぞ?そうだな、好きかどうかは別として、されていいことと嫌なことだけははっきりさせておけよ。皆に同じじゃ、お前が辛いんだろ?」  やはり、このひとは俺の心を見透かす。だが、嫌なのだろうか。キスされるのも、触れられるのも。  そんなことはないのだ。だからこそ、もどかしい。 「乗れよ。光一郎、待ってるんだろ?」  そうだった。遅くなると告げたのだから、きっとあいつは一人では飯も食わずにいるだろう。  ヘルメットを受け取ると、釈七さんがそっと顔を近付けた。 「その前に」  微かに挑むような目付きに、どきりとする。息を呑んで、身を固めた。 「俺も、はっきりさせとくぞ。俺に今キスされるのは、嫌か?」  すぐさま首を横に振る。気圧されたのではない。多分、このひとには、このひとだけは。 「そっか、ありがとな」  細められた目は、すぐに閉じた……かのようだ。ろくに確認もできないうちに、唇同士が重なっていた。

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