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第三章 北極星(ポラリス)・56
◆◇◆
案の定、光はまだ夕食を摂っていなかった。それは予測済みだったのだが、いつもとまったく同じ、ではなく。
玄関を入ると、食欲をそそる香りが充満している。
「あ、鞍!おかえりー!」
その声もリビングからではない。ハッチの向こうからだ。
「ただい、ま」
光が、コンロの前に立っている。俺が宮城家へ居候してから、初めて見た姿だった。コトコトと煮え立つ音を立てているのはカレー。大ぶりな野菜が、かき回されて浮き沈みしている。
「光も、料理するんだ」
「まぁねー、モデル時代は一人で住んでたし。和や鞍のご飯が美味しかったから、こっちに来てからは甘えちゃってたけど」
火を止めると、俺に近づき一瞬だけ口づける。
「おかえりのキス、ね?」
「う、うん」
素直に受け止める。拒むことも怒ることもできずに。今日は、そうしてはいけない気もして。
「別に、俺作ってもよかったのに」
「いいんだよ、鞍は家を出るんだもん。少しくらいは自分でやらないとさー」
ずきりと胸が痛む。そうだった。俺は、ここを離れるともう光に告げたのだ。
「あっ、あの、たっ、たまには飯作りに来る、から」
「うん、そうしてもらえると嬉しいな。また鞍の手料理も食べたいし」
くすくすと笑って、光は皿にカレーを盛りつける。なにもしないのも悪いと思い、冷蔵庫の野菜室にあったレタスなどを簡単に切り分け、サラダを用意した。
「どうぞ。市販のルー使ったから簡単なのだけど」
「うぅん?ありがと。いただきます」
料理好きの和は、カレーもタマネギと小麦粉を炒って、ルーから作った。この家ではそれが当たり前だったのだろうが、一人暮らしの時はレトルトしか口にしていない俺は、固形ルーを使ったものだって十分すぎる。
「ん、美味い」
「そ?よかった」
お世辞でもなんでもなく、自然と口から出た言葉。複雑な味ではないが、その分素朴で、温かい。
光は、テーブルに食事の準備が整うのを座って待つばかりだと思っていた。多少時間がかかろうと待っていてくれて、何が並んでも目を輝かせて、美味しそうに食べてくれる。
それでいい、と思っていた。それで満足だった。
もしも釈七さんと同じように、光がキッチンで俺の隣にいたら。一緒に調理をしてくれたら、なにかが変わっていただろうか。
スプーンを口に運びながら、ほろ苦さを舌に感じる。甘党の光が作るカレーは、辛さでさえ控えてあったのに。
「ところで、部屋はみつかったの?」
「うん。司さんの紹介で、大学の借り入れてるアパートを借りられることになった」
「へぇ?それなら、なにかと安心そうだね。俺もたまには遊びに行っちゃおうかな」
「うん、いいよ?」
光が来てくれたら、俺も嬉しい。その一言がなぜか言えない。
気遣った和を去らせてまでせっかく住まわせてもらったこの家を、自分の都合で出て行く。自分の気持ちが、決めきれなくて。最初から光は、なにも悪くない。なのに俺は、感謝の印ひとつ残せないまま。
「ごめんな?」
やはり、溢れ出てしまう謝罪。
「だからぁ、謝らなくてもいいって言ったでしょ?鞍がどこにいようと、俺は鞍が好きなんだから」
どこにいようと。本当に良いのだろうか。
身勝手極まりないと知りつつ、一抹の寂しさは胸を過ぎってしまう。光は「待つ」と言ってくれた。その優しさは確かに嬉しい。けれど同時に、なりふり構わず引き止めて欲しいとも願っている。縛り付けても、手足をもぎ取っても、ここを出るな、そばを離れるなと。
わかっている、光にそんな真似はできない。あの日、手紙を盗み見ても勝手に飛び出して別の誰かの元へ逃げ込んでも、決して俺を責めなかった、「怒れない」と首を振った光には。
長所が短所に、短所が長所に。釈七さんは俺にそんな話をしたけれど。
ヘタレで、どこか大事な部分をはぐらかし気味にしてしまう光は、実は誰よりも優しく、誰よりも相手を重んじる。そして間違いなく、俺は彼のそういう部分に惹かれたのだった。
相変わらず光はソファに、俺は直に床に座っていた。ふと思い立ち、皿を持って立ち上がる。呼ばれぬうちに自ら光の横まで行くと、肩が触れあうくらいに密着して腰掛けた。
「俺も、やっぱり光のこと、好きだ」
恥ずかしいので目は合わせられなかった。ちらりと横目で伺うと、光はくすぐったそうに笑っていた。
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