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第三章 北極星(ポラリス)・58
「そんなことより。お前にくっつかれてたら俺、いつまで経っても帰れねぇんだけど」
本気で困惑しているのではない証拠に、声は笑いを含んでいる。ずっとこうしているわけにもいかないと意識の奥では俺も理解しているのに、どうしても離れがたい。
「仕方ないな。よ、っと」
不意に屈んだ釈七さんに、膝の裏に腕を通され、抱き抱えられた。
「泣き虫は、こうして帰るか。バイクは今日は置いていこう」
軽々と俺を持ち上げたまま、釈七さんはすたすたと歩き出す。
「えっ、ちょ、さ、さすがにこれ、はっ!」
足をばたつかせたら釈七さんのバランスまで崩してしまいそうなので、抵抗は難しい。下ろして欲しい、と口にするだけだ。相手の首元をしっかり掴んで、離れない指とは矛盾しているものの。
「泣き止んだら下ろしてやるよ。まぁ夜だし、あまり人のいなそうな道を通るけど」
意地悪げな調子も含んで、楽しそうに釈七さんは言う。恥ずかしいのはもとより、疲れはしまいかと懸念するのだが。
早く涙が止まるよう、肩に顔を押しつける。対処虚しく、服にじわりと染みが広がるばかりだけれど。
「なんだよ、泣き止まないのか?言っとくけど、宮城家には寄らないぞ。こんなん見られたら、光一郎になんて言われるかわかんねーしな」
顔を伏せてる俺には、今どこを通っているのかわからない。しかし彼がそう言うからには、真っ直ぐマンションへ向かっているのだろう。
「今日は帰っても、俺も独りじゃないな」
ぽつり溢れた声が、耳に届いた。
釈七さんが独りにならなければ、光が独りになる。当たり前なのだが、それがどうしても辛い。
けれど俺がアパートに入れば、全員が「独り」になる。ならばせめて、一つでも減らすべきではないのだろうか。
「それにしても、抱きかかえたとたんえらく大人しいな」
しばらく進んで、声を掛けられふと気付く。蕩けそうな安心感。眠気さえ誘われるほど
に。「泣き止めば下ろす」と言われていたのに、涙が乾いてもこのままだった。
我に返ればエレベーターの中。閉じられた箱には、自分たちの他は誰もいない。何度目かの通路を渡り、部屋の前に辿り着く。
「鍵、まだ持ってるか?」
彼が留守の部屋を訪れることなどありえないと思っていながら、どこにしまっておくこともできなくて、肌身離さず持っていた。ポケットを探ると、指先にガラスの六面体の感触。ちり、と微かに鈴が鳴る。
「俺、手が塞がってるからさ、お前が開けてくれないか?」
釈七さんが俺を下ろすという選択はないらしい。ここまできては、俺にも反論できない。鍵を取り出すと、腕を伸ばし回す。カチャリと、解錠の合図が聞こえた。
靴を履いたままで、俺は室内に運ばれる。ソファーに投げ落とされると、続けざまに釈七さんが被さった。何も言わず、何も返さず。引き寄せられる磁石のように俺達は唇を重ね合わせていた。
ねっとりと舌が絡む。息を継ぐのさえ惜しくて、何度も何度もせがんだ。漏れる呼吸が荒くなる。
「は、悪い、苦しくないか?」
「ぅ、んん……っ、も、すこしっ!」
唾液が溢れ、口端を伝う。唇が腫れるのではないかと思うほど強く吸い合って、とろりと糸を引きゆっくりと離れた。
「なんだ、やけに大胆だな」
息が上がって、ソファーに寝転がったまま肩を上下させる。釈七さんは俺の靴を脱がせ、玄関に運んだ。
「喉、乾いてねぇか?なんか飲むか」
その足で、彼はキッチンへと入る。
朦朧とした視界に、ハッチの向こうでメーカーにコーヒーの準備をする釈七さんが見えた。粘つく口元を擦って、俺はやっと上体を起こす。再度目をやれば、コーヒーを淹れながら首と肩とで携帯電話を挟んで、彼は誰かと話している。
「……あぁ、ちょっと話が盛り上がってな、今日はここへ泊める。大丈夫、泣いてるとかじゃねぇし。ん、朝には送ってくから、もう突然来んなよな?」
ちらりとこちらへ、視線が送られた。断片的に聞こえてくる単語で察するに、相手は光のようだった。
「光に、電話した、んすか?」
カップを両手に持った釈七さんに、そろそろと訊ねる。
「あぁ。待たしとくのも気に掛かんだろ?泊めるって伝えたから、今晩はのんびりすればいい」
独りになる心の準備を、静かに始めていた光。俺の決意を受け入れて、自ら食事の支度をしていた彼に対し、俺はどうだ。いざ司さんに書類を手渡されたら怖じ気づいて、また釈七さんの部屋にいる。
情けない、と思う。せめて手続きが済むまでは、光の隣にいるべきではないのか。だけど。
── 今日は俺も、独りじゃない。
先刻の釈七さんの言葉を思い起こす。
以前とは、印象が逆だ。独りにしないでと言った光、あいつのところに帰ってやれと背を押した釈七さん。
何がどう変化して、そうなったのかはよくわからない。いや、変わったのではなく、見えていた面が違っただけなのか。
「まぁ、心配してこの前みたいに押しかけられても困るしな。何もすんな、とは言われたけど」
カップのコーヒーを啜りながら、釈七さんが含み笑いする。何も、とは言ってもさっきえらく濃厚なキスをしたばかりで。
「そういうわけだから。もう何もしないから安心しろ」
安心。安心、とは何だ。彼に抱かれている方が、安心を感じる自分がいる。傍にいても触れられない方がよほど不安だと。
いつから俺は、そう思うようになったのだろう。我知らず体温を求める自分を浅ましく感じる。さっきのキスだって、むしろ俺の方が貪欲だった。
俺はいつから、同性と身体を重ねるのを当たり前と思うようになってしまったのか。
「なに、襲って欲しかったか?」
「そっ、そんなんじゃ」
そんなのじゃない、とは言えない。期待しなかったと言えば嘘になる。繋ぎ止めて欲しい。身体も、心も。独りになるなんて考えもつかなくなるほど。籠の中で生まれ、育った鳥のように。
わかっている。そんな欲求がいかに卑しく、愚かであるかも。でも。
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