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第三章 北極星(ポラリス)・59
「んな目で見られたら、何かしたくなるだろ?」
言うわりに、釈七さんの腕はソファーの背もたれの上。目線は間近で交錯しているものの。
「ちゃんと口に出すあたり、律儀なんす、よね」
意識しなくとも、自分の声には不満が滲む。
「いきなり本気で襲って、お前を泣かせたくないからな」
別に泣いたって構わないのに。嫌だと思う悪寒が、いつしか快楽に変わっていく。だからこそ、忘れられなくなる。何度も味わいたくなる。これ以上無いと思うくらい不味い食べ物をまた口に入れたくなったり、注射のちくりと肌を刺す針が癖になったり。
あの日の……苦しげに俺を責め立てた光との交わいを思い出す。張り裂けそうな痛みを伴ったが故に、俺は一生忘れない。あのときは、確かに繋がっていると実感できた。繋ぎ止められているのだと。
だが、光にあの激しさが持続できるはずもなく。というより、彼の根本的な優しさを否定することにもなりかねない。それは違う。
そして釈七さんも。彼も、優しいのだ。だから、事前にいちいち宣言する。拒めば手も引くだろう。
彼等の想いは知っているのに、俺は……
ところが。釈七さんは、笑った眼で少々意外なことを口にした。
「言っとくけど、他の奴等が言う泣かしたくないのと、俺のはちょっと違うと思うぜ?俺は、お前の泣いた顔も好きだからな」
言っていることがどうにも相反している気がして、俺は首を傾げる。
「違わないよ。結局みんな、そうやって俺の顔色伺うようなことするんだ。俺は、そんな気遣われるような人間じゃないのに。そんなことで、今更嫌ったりなんてできないのに」
「そうじゃねぇって。お前に対してというよりは、どっちかって言えば俺の欲だな。泣かせんなら、嬉し泣きの方がいい。だいたい、襲ったって今のお前じゃ普通に受け入れてくれるだろ?」
頷くのは憚られたが、釈七さんの言う通りだった。
仮に今、このひとが俺の感情を確かめずに無理矢理押し倒したとしても、一切拒まず俺は身体を委ねるだろう。断りを入れる、という行為そのものが無意味だ。ならば
「じゃ、ぁ、光に遠慮して、んのか?」
電話での忠告を守ろうとしているならそういうことになる。
「襲うのがか?まさか。だから、俺の意思だって。襲って、俺の欲望だけをお前にぶつけたくねぇの。お前にも求めて欲しい、っていう俺の願望だな」
「! おっ、俺は!俺は……最初から、拒否、なんて……」
拒否は、してない。だが、ここでされるがまま彼に抱かれたら、後ろめたさも付きまとう。また、相手の想いだけ受け止めて、それだけに流されて。釈七さんの言わんとしていることが、少しだけ理解できた。「襲われ」たら、そこに俺の「意思」はない。
「な、そういうことだ。襲って欲しいなら誘ってみろよ」
このひとは本当に、なんでもお見通しだ。わざと意地悪く挑発する。悔しくなって、唇を噛んだ。自分に足りないものは、自分でも痛いほどわかる。
「誘って、も、俺は、自分の気持ちわかんねーんだぞ?同じこと、他の奴にもするかもしんねー」
「そうなったら、それがその時のお前の気持ちだ」
釈七さんの言葉はにべもない。けれど、的確に俺の迷いを断ち切ってくれている。ぷつり、ぷつりと、絡まった糸を解していくように。
「とりあえず、風呂入ってこい。温まって、よく考えてくるといい」
クローゼットからバスタオルを取りだして、釈七さんはそれを俺に渡した。
「俺を誘うなら、いつでもいいぞ?夜は長いしな」
くすくすと笑って送り出す。この時に至るまで、あえて髪にも触れないまま。
シャワーを浴びながら、頭を巡らす。俺は結局、どうしたいのか。誰かの傍にいたいのか、独りになりたいのか。
おそらく光なら、ああは言わない。強く突っぱねれば黙って引き下がり、なんとなく人恋しくなれば、甘やかせて存分以上に応えてくれるはずだ。一方的であるからこそ、俺はただ受け入れ、受け止めるだけでよかった。けど釈七さんは違った。いや、あの共に過ごした四日間までは光と同様、想いを俺にぶつけてくれていた。あの日々を境に、自分たちも気付かぬうちに、態度が変わってきたのだ、きっと。
今まで、自分一人ではどこへ足を踏み出して良いのかも分からず、差し伸べられた手に縋って、引いてもらっていた俺。釈七さんは、その繋いだ手を離そうとしている。先に行ってしまうのではない。少しだけ前を進みながら、手を引かれずに自分の足で歩いてみろと促しているように思えた。
施設の子どもが、自転車に乗る練習をしている様が頭に浮かぶ。
俺は意地になって、誰も見てないところで転倒を繰り返し一人で乗れるようになったが、他の奴は、最初は後ろを職員の人に支えてもらうのだ。「離さないで」「まだ離しちゃだめ」と言われてるのに、漕ぎ方が安定したと見えたところで、職員は黙って手を離す。離されたと知らない乗り手は、いつの間にか一人で乗りこなしている。
釈七さんは今、同様に俺の支えを外そうとしているのだと思う。倒れ込まないよう、頃合いを見計らって。彼に、そこまでの考えは無いかもしれない。だけど。
「バランスを崩しそうになったらすぐに掴んでやる。ずっと後ろで見ている」と。
歩き始めた赤子のようで、一歩一歩は覚束ない。転んでも駆け寄ってはくれない可能性もある。であっても、俺が「しなければならないこと」とはこれではないのか。誰かといることでも、一人で住むことでもなく。
浴室を出て、バスタオルを引っ掴む。そういえばまた、着るものを用意していない。大判のタオルに肩からくるまっただけで、そろり、とリビングへ戻った。意思表示、なんて、大仰なものではないけれど。
「しゃ、……あ、晃……」
俺の姿を見て、彼は一瞬目を丸くする。
「あぁ、悪い。そういやタオルしか渡してなかったな」
驚いたように見えたのはほんの一時だった。あとは何も変わった様子はなく、クローゼットから以前借りて着たのと同じスゥエット上下を取りだした。
「着るもん、ここに置いとくから。いくら気温が上がってきたからって、そんな格好でいると風邪ひくぞ?」
ぽん、と生乾きの頭に触れる。
「じゃあ、俺も入ってくるな」
すれ違いざまにそう告げて。
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