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第三章 北極星(ポラリス)・60

 想像もつかなかった反応に、なんだか肩すかしを食らった。洗面所のドアが閉まる音を聞き、少しだけ強ばらせていた肩肘を緩める。誘ってみろ、と言ったくせにずいぶんあっさりと躱された。やはり今日はもう、俺に「何かする」気はないのだろうか。  スゥエットに手を伸ばし、もそもそと着込む。下着だけは、自分のものだ。最初にここを訪れた日の翌日、服などと一緒に購入したもの。光が出張中に来た時も置きっ放しだった。食器以外にもこんなものまで、と思うと、やけに気恥ずかしい。考えてみれば、この部屋に泊まるのも何度目になるのか。  自分の存在がなんだかわからなくなって混乱した俺を、慈玄は抱いた。  初めて会った時に一目惚れした、耐えていたけどずっと触れたかったと光は言った。  それぞれその時は、「そこ」にいなくてはと思った。繋がれたと。身体と同時に、心も。  けれど、彼等に直接「居ろ」と命じられたわけではない。光には「傍にいて」とは言われたが、宮城家への移住を誘ったのは実際は和だ。 「過ごしやすそうなら住めばいい」と一人暮らしの俺を呼び込んだ慈玄は、快く宮城の家へ俺を行かせた。「一人にしないで」と声を振り絞っていた光も、家を出ると言う俺を引き留めはしなかった。  だったら、彼は。洗面所の方へ目を遣る。あのひともまた、来る時は拒まず、出ると言えばただ手を振るだけか。  がちゃりと扉が開き、髪を拭くタオルの間から覗いた目と目が合った。 「どうかしたか?」  常日頃と同じ、平然と響く声。いつか彼が、「色っぽくてどきどきした」と口走った全裸にタオル一枚の姿は、なんの効果も引き出さなかったらしい。所詮あれは、お世辞か慰めだったのかと落胆する。  ややサイズの大きいスウェットに、今やすっぽり包まれた俺に彼は近づく。このひとの風呂上がりの常としてスゥエットのパンツのみで上半身はしばらく何も身に付けないのだが、幾度も縋った胸板は、色々と思い返されてどうしても直視できない。  視線を逸らして俯く俺の耳元で、ちょっと照れたような、はにかむような声が聞こえた。 「呼び方。変えようとしてくれたんだな。ありがとう」  思わず顔を上げた。真っ直ぐな瞳が、俺を見ている。それだけで、胸がいっぱいになって張り裂けそうだった。 「お前の気持ちは今、俺に注がれている。そう、捉えていいんだよな?それに応えていいんだな?」  喉が渇く。舌が口内で貼り付きそうになるのを、無理矢理剥がすようにして言葉を紡いだ。 「あ、晃。俺、を……俺を、好きでいて、くれるんだよ、な?だ、ったら……愛して。繋ぎ止めて。もう、迷わないように……」 「それ、告白か?」  くすりと笑みが漏れたので、まともに受けてもらえなかったのかと思う。図々しい話だということは、重々承知している。いまだに俺は、自分なんかが愛されるわけがないとどこかで思っている。  だけど俺の想いを、気持ちを求めると言うならば。これが、今の俺の精一杯の言葉だ。  尚もはぐらかされるなら仕方ない。突き放されたら……それなら俺も、決心が固まる。ぎゅっと目を瞑って、次の返答を待った。  声より先に、指先の感触が頬に届く。するりと滑って、顎までくると掴まれ持ち上げられた。恐る恐る目を開けば、思った以上に真剣な目付き。赤みがかった濃褐色が、静かな炎を映す如く。温まって血色を帯びた、形の良い唇が緩やかに開いた。 「愛してやるよ、鞍。一緒に暮らさないか?」  一緒に暮らす。その明確な言葉に、頷くどころかひどく狼狽えた。おろおろと目線を泳がせる。 「ご……っ、ごめん、答えは、まだ出せない」 「繋ぐ、って。こういうのは駄目なのな」  自分でも、意味の分からないことを言っているとは思う。愛してほしい、と言いながら、俺がしようとしていたのは「自己意思」の放棄だ。監禁され、縛り付けられ、「俺だけを見ていろ」と耳元で囁かれ続け、自分の思考など根底から削り取られてしまえばいいと思っている。  なんて醜悪で、卑怯で、浅はかな欲求だろう。 「わ、分かってるよ、わがまま言ってることくらい」  本当は、わがままなどという可愛いものではない。自分の「個」という責任を、俺は相手に押しつけようとしているのだから。 「どうせわがままなら、それをはっきり言ってほしいけどな。引き止められないのを物足りなく思うなら、自分から手を伸ばしてみたらどうだ。いつでも握り返してやるのに」  僅かに怒気と、哀しさを含んだように聞こえる晃の声。俺の稚拙な言い訳では、どうあっても彼を悩ませてしまう気がした。喘ぐように言葉を探す。吐き出そうとすれば、音より先に涙が溢れた。胸を掻きむしる。 「っ、く、くるしい、んだ。心と体が、噛み合っていないようで……それが、くるしくて……」  頽れそうになる俺を、晃が抱き留めた。息を吸っても吸っても、酸素が肺に届かないような錯覚。水に溺れた時みたいに、喉が鳴る。 「鞍、心と体、どちらも俺に向けるのは、今はやっぱり無理か?」 「わからない。ただ、自分の意思なんて……俺は、言っちゃいけないって。誰かに従って、繋ぎとめて、捕らえていて欲しい、って……思ってしまう、んだ……」  自分が何かをしたいと思うだけで、相手を傷つける。  俺は、考えちゃいけない。求めちゃいけない。存在していては……いけない。  慈玄に「前世のこと」を聞かされたとき。あのときもそうだった。自分という「モノ」が分からなくなる。実際生きているのかどうかさえ。 「俺」という曖昧な存在に、周囲が惹かれ、振り回される。振り回している自分に耐えられない。いっそ消えてなくなってしまえばいい。そうすれば、誰も、何も困らない。光も、晃も、司さんも皆。  抱き締めたまま、晃は俺の背を擦る。耳元に口を寄せ、ゆっくりと、諭した。 「だったら。だったらもう一度言う。鞍、ここに住めよ。俺と一緒にいろ」  悲痛も滲ませながら、彼はひとつひとつ、言葉を耳に侵入させてゆく。 「俺がお前を繋いでやる。離したりしない。だから、お前も離れるな」 「え」 「光一郎には俺から話してやる。司にも断りを入れる。お前は何もしなくていい。俺と、ここに居ろ」  身体を離して再び向き合う。深淵に溺れそうだった体を温めるようにして、晃は俺の肩を何度も撫でた。実直に、必死に訴えかける眼差しをこちらに投げかけて。 「晃……」 「そう呼ぶのは、お前だけだよ、鞍」  相手の顔に、ようやく淡い笑みが浮かぶ。衝動的に、俺は腕を首に回した。むしゃぶりつくようにして、キスを交わす。離してはまた重ね、角度を変え。くちゅり、という湿った水音と、合間合間に溢れる息遣いの他は、何も聞こえない。無論声など発せないままに。

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