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第四章 宵の明星・1

◇◆◇  ここに人間は存在していない。否、存在出来ない、という方が正しいか。  とはいえ。なにも宇宙の果ての異星でも、深い地中や海の底、天上の世界、というわけでもない。れっきとした地上の、森閑とした山中である。  遙か上空の人工衛星から、地球の表面を余すところなく映し出せる、といわれる時代だが、そんな人間の叡智の賜をもってしても、いまだこういった「ダークスポット」は確かに存在している。  ここは、そういった映像にも人の目にも見えぬ場所のひとつ。人ならざる「妖」が張った結界内。  決して豪奢ではないが、こぢんまりとしながらも古めかしい、威厳の漂う伽藍。時の流れが留まったような空気を振動させるように、少年の玲瓏たる声が響く。 「ずいぶん話が変わっているではないか慈斎(じさい)。我も謀られたものよな!」 「えぇ、っと。それ俺に言われましても、ねぇ?」  どうやら少年、と見える者の方が立場が上らしい。十三、四歳にもとれる外見は、女と見紛う麗しさ。ひとつに結わえた艶やかな髪に雪の肌、桜色の頬と唇。男であると知ればそれこそ稚児や陰間をも思わせる。ただ、瞳は微かに金色を湛えて鋭く、そこのみは少年が「人でない」ことを匂わせた。それが、苛立たしげに袴履きの両脚を動かし続けている。  右往左往する彼の下座に跪くのは二人の男。先刻慈斎、と呼ばれた方が若手である。どう見ても前時代的な光景から浮いた、明るい茶の短髪。この場でこそ修行僧よろしく、白い羽織に黒袴といういでたちだが、派手なスーツでも身に纏えば、夜の繁華街に紛れていても違和感がなさそうな垢抜けた印象。  もう一人は慈斎とは真逆に、風景に完全に溶け込んでしまうような厳格な雰囲気の年長者だった。見るからに禁欲的な修験者然とした風貌。漆黒の長髪と髭で顔を覆っているものの、不潔さは感じられない。やはり慈斎と同様の黒袴姿で、ひっそりと控えている。 「高尾殿の口添えもあって、烏の小僧を見守るだけというから我も大目に見てやったのだ。あやつの心があれほど脆弱だったのは、我も想定外だったからな。だが小僧の拠り所がみつかったのに、慈玄が戻らぬのはどういう了見だ!」  結局ご自分が蒔いた種でしょうに。慈斎は口の中で嘯く。  そもそも慈玄はここ、迦葉の守護を申し使っているのに、昔からろくに山に居着いたためしがない。そんな男をいつまでもあてにすること自体愚かしいと、慈斎は思う。慈玄のようにいずれ封印を決定づけられるのは御免だが、自分たちの働きのみで、今でも迦葉はそれなりに平穏なのだ。あの男をそれほどまで必要とする理由が、慈斎には分からない。目の前の子どもみたいな主……中峰の、馬鹿げた執着ではないのだろうかと内心蔑んでいる。 「加えてこの邪気。慈玄め、いつまで我の手を煩わせれば気が済むのだ。自らのこのこ戻るならば、このまま留め置けぬのか?!」 「それができれば苦労はない、のは中峰様もようっくご存知のはずでしょ?いつぞやみたいに大暴れされて、またこの一帯が壊滅状態にされたらどうするんです。今の方が人間も多い分、犠牲も多くなりますよ?」  美しい顔を歪ませ、中峰がぎり、と歯噛みする。 「とにかく。烏の坊やを手放して尚慈玄が下界に残りたがる原因は、俺もはっきり確認したわけではないので。取り敢えずそこらへん探ってみますよ。しばしお待ちを」  口端をくい、と持ち上げると、慈斎は姿を消した。彼にしてみれば面白いことになった、そう思うより他はなかった。  慈斎が立ち去った後も、残された年長者は身じろぎせず傅いたままだった。年長者……には見えるものの、生きてきた長さは実は中峰や慈斎よりも彼の方が短い。妖にとって、見た目は実年齢に比例しないのだ。  中峰は彼に一瞥を送ると、ぽつりと訊ねる。 「貴様はどう思う、慈海(じかい)」 「慈玄が仮に覚醒した場合、我等ではなかなか手が付けられぬのは周知のこと。邪気が蠢いているのはあやつも気付きましょう。その始末だけは一旦あやつ自身にさせれば宜しいかと」  渋い表情で、中峰は鼻を鳴らした。 「ふん、封じてはあるのだからそちらは大した事はないだろうしな。我はあんな下衆な怨霊にはあまり関わりとうない」 「存じております」  顔色を変えず、慈海は頷く。  人ならざる者達の密談を盗み聞きしていたが如く、大木の枝がざわりと風になびいた。 ◇◆◇  五月ともなれば、陽光はすでに初夏の気配を匂わせる。木々の葉は、新緑というにはもはや色濃い。暑い、と口に出せば真夏はどうなるのだと言われそうだが、日中は摂氏30度に届くかという日もあった。  彼岸を過ぎて後、慈玄の僧侶としての仕事はそれほど多くはなかったが、和宏の方は大型連休中もアルバイトに明け暮れていた。折しも中学高校の運動部は総合大会の季節であり、バスケットボール部に所属する和宏はカフェのシフトが入ってなくても、こちらの数合わせや応援にかり出されたりもした。また学生は、連休明けには中間試験も控えている。  つまり、和宏にしてみれば結構忙しい黄金週間だった。  彼が慈玄の元、「慈光院」で生活するようになって、ひと月半ほどが経過している。桜の花を愛でる暇もほどほどに、その期間はあっという間に過ぎ去った。  こと慈玄にとって、こんなに満ち足りた日々は未だかつてなかったと言ってよい。  永らく生きてきた中で初めて、かつ心底「傍にいて欲しい」と願った少年は、その通りに自分の隣にいて、色々と世話を焼いてくれる。和宏の言動、仕草、すべてが可愛らしく、愛おしく思えた。それこそ性別など大した問題ではなく……元々、彼にしてみればそれは些細な違いに過ぎなかったのだが……「誰かと共に暮らす」喜びを存分に堪能できる日常であった。  それまで和宏が寺を訪れたときと同じく、一緒に食事をし、風呂に浸かり、並んで就寝するだけで至福を感じた。かつて正体を見極めたいと思った柔らかく温かな気の流れは、こういった生活の中でも明瞭に慈玄を包み込んだ。いまだ確たる解析ができぬものではあったが、心地良く感じるのは間違いない。  しかも、恋愛のなんたるかさえ曖昧であろうこの少年は、情交の求めを強く拒みもしなかった。若さ故の好奇心も加わっているのだろう。キス程度なら、自発的にしてくるときもある。どうやら「身体に触れる」行為とは、すなわち愛情表現である、という認識を和宏は疑わなくなったらしい。羞恥から「嫌だ」と顔を背けることはあっても、口付けからなだれ込む性交から逃れはしない。  さもなくば、無意識のうちにこれが「慈玄の心をも満たすこと」だと、彼は承知していたのかもしれない。慈玄の方も、それは薄々と感じ取っていた。なればこそ、自分が「欲求」を抑えなければ、とも。  体格の差は歴然であったし、無理をさせるわけにはいかないと常々慈玄は思っていた。だが、理性を発揮したところで共に過ごす時間が長くなればなるほど、和宏への愛情は深まってゆく。かつて懐いた懸念や躊躇は日毎薄れ、今となっては和宏への想いは疑いようもなくなった。情愛が募れば、おのずと性欲も湧く。受け止めてくれる和宏に甘えてしまうことも多い。  妖である慈玄にとって、「種の存続」という概念はほぼ存在しない。子をもうける必要がないので、愛する者の性別に頓着はなかった。人間である和宏に、同様の感覚を植え付けてしまいそうなのには少々後ろめたさを感じたが、少年がそういう「目覚め」を得たとしたら、その時はその時だ、というやや浅慮な目論見もあった。  そしてそれは、彼が過去より延々と懐き続けてきた「罪の意識」をも消し去るまでに。  慈玄がこれほどまでにくつろぎを感じられたのは、長い間彼の憂慮の源だった鞍吉のこともある。誰にも心を開かず、転生して尚自分で自分を追い詰め生ける屍のようであった元烏天狗の青年は、和宏の義兄、光一郎と出会ってわずかずつではあるが変わり始めたのだ。  各々の現在の「同居生活」を開始して以来、再び顔を合わせる機会も増えてきたが、そのつど鞍吉の表情には変化が見られた。笑顔こそまだほとんど無いとはいえ、澱んだ目付きで俯くか睨むかだけだったのが、時折照れたり困ったり、他人に悟られるのを恐れていたであろう寂しさをも漂わせるようになった。まだ完全とは言えぬものの、たったそれだけの変調でも慈玄には悦ばしいことであった。  己の決断、選択は間違ってはいなかったと確信するには十分だった。  だから、ようやく多忙から少しばかり解放された和宏に、おずおずと強請られたことにも苦笑紛れながら承諾してしまった……のだろうと後々彼は省みる。 「慈玄の思い出の場所に行ってみたい」  和宏はそう、告げたのだった。

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