102 / 190

第四章 宵の明星・7

「慈玄、貴様一体どういうつもりだ」  低く通る声を耳にして、和宏の心臓が跳ね上がった。振り向くと、先刻までなにも見当たらなかった堂内に一人の人物の姿がある。黒袴を翻し、回り縁から泰然と砂利の敷き詰められた境内を見下ろしている。  慌てて和宏が慈玄に目を向けると、彼は驚いた様子もなくやれやれといった体で肩をすくめた。 「緊急事態だったんだ、勘弁してくれ」 「元はといえば貴様が悪いのだろう。こんな子どもを危険な目に」 「あんな早ぇお出ましだと思わなかったんだよ。封印の儀は続けてるんだろ?」 「自分の汚点をなすりつけるのか。だいたい、遅かれ早かれ『アレ』が動くのは予測がついたはずだ。それを今更」 「あ、あの!」  堂に向き直った和宏が、口を挟んだ。輪郭を髭で覆った男は、じろ、と彼を睨め付ける。 「え、えっと。慈玄は、悪くないんです!俺が、その……迦葉に行ってみたい、って言ったから」  おそらく、話の内容は理解できないまでも、慈玄が安易に帰山すべきではなかったのだと和宏は悟ったのだろう。とっさに弁解を口にしていた。  ざ、と砂粒を踏み、男が縁から境内に下りた。ゆっくりと和宏に近づく。 「この子に『アレ』のことを話したのか?慈玄」  和宏に目線を定めたまま、男が問う。真っ直ぐ見返しながら、和宏はごくりと喉を鳴らした。気まずそうに耳を掻いていた慈玄が返答する。 「いや……それぁ、まだ」  さも厳格さを物語るような眉間の皺を深めて、年長者は盛大に溜息を吐いた。そして、彼は改めて和宏を注視する。漆黒の中に微かに金色を湛えた瞳に、だが怒りの色はなかった。骨張った掌が、少年の肩に置かれる。 「案ずることはない。私は慈海と申す。ゆるりと過ごせ、とは言えんが、しばし君にはここで待機してもらおう」 「……へっ?!」  素っ頓狂な声をあげたのは和宏ではなく、慈玄の方だ。 「ちょ、待機って!」 「なんだ、そのつもりで彼をここに運んだのではないのか?少々貴様が離れても、ここならば安全だからな」 「いや、だからやむを得ずだったんだって!」  両者のやりとりを呆然と見つめる和宏。おろおろと、何から訊いてよいものかと迷っている。 「この子にあやつの危害が及ぶだけではない。貴様等がここまで足を踏み入れたにも関わらず、的確な対処もせず立ち去ったりなどしたら、あの中峰様がただで済ますと思うか?」  慈海は一旦言葉を区切り、慈玄に数歩近付いて声を潜めた。 「鞍吉君の件、忘れたわけではあるまい」  その一言は、和宏の耳には届かなかった。が、慈玄が悔恨を露わにし、ぐ、と喉を詰まらせた様子は彼にも見て取れた。 「あーあー!ハイハイ、分かりましたよ!悪ぃな和、軽く片付けてくる」  いったい何を、と問い掛ける暇もなかった。言うが早いか、慈玄は堂の内部に飛び込んだ。建物内は一つ間しかないように見えるのに、彼の気配はそれきりふっつりと消えてしまった。  再び深く嘆息した慈海も、後を追い歩み出す。 「あの!」  その後ろ姿を、和宏の声が引き留めた。 「なにかね?」 「あの俺、何にも知らなくて。ここ、俺が来ちゃいけなかったんですよね。ごめんなさい」  しゅん、と項垂れた和宏に、慈海はわずかに表情を和らげた。 「慈玄の言う通り、『緊急』だったのだろう?君のせいではない」 「でも」 「……ここを訪れた、ということは、慈玄が本当は何者なのか、それは知っておるのだろうな?」  コクリ頭を落として、少年は頷く。 「ふむ」  顎髭に手をやり、慈海は思案を巡らせる。慈玄が自ら明かしていない事柄を、自分がこの少年に言い伝えるのは筋違いであろうと彼は思う。第三者の口伝では、相手が懐く慈玄への印象さえ変えてしまいかねない。  かといって、見も知らぬ場所に一人待て、とまで言われて、なんの事情も判らぬのも少々酷な話だとも思える。和宏の正面に向き直り、慈海は口を開いた。 「この堂の裏手は、天狗たちの住処となっている。無論、人間の目には見えぬし、当然足を踏み入れることもできない。結界、と呼ばれる見えない壁で覆われている、と考えてもらえれば良い」  滔々と説き伏せる低音は、和宏の耳にすんなり流れ込んでゆく。 「ここは、その境界のようなものだ。まだ下界の域ではあるが、本来は修行を積んだ術者でなければ立ち入れない。というより、そういった者たちの技量を見極めるために、この場所は存在していたのだ。無闇に結界を破られても困るのでな」  真摯に耳を傾け、少年が相槌を打つ。その生真面目さを、慈海は好ましく感じた。 「人間の世界に法があるように、妖には妖の掟がある。君の要望を慈玄は叶えたかったのだろうが、あやつがこの地を踏んだことで、目覚めてはならぬものが少しばかり騒ぎ出してしまった。だから、それらを自ら鎮めなければならない。そのため慈玄は君と一時離れて、結界内へ入った。君にここで待ってもらいたいのもそういうわけだ」 「……わかりました。ありがとうございます」  和宏は深々と頭を下げた。 「私も手を貸して、あやつをなるべく早急に戻らせるようにしよう」  慈海は踵を返し、結界内へ戻ろうとした。 「慈海さん!」  再度呼び止められ、怪訝そうに振り返った慈海に 「和宏、といいます!慈玄のこと、よろしくお願いします!」  跳ねるように、少年はもう一度辞儀をする。 「和宏君、か。承知した」  ふ、と微細に口元を緩めて答えた、その時。 「……? 君は」  慈海は奇妙な空気を嗅ぎ取った。 「まぁいい。いずれそれも、判明するやもしれん」  独り言のように呟いて、峻厳な背は奥に消える。残された和宏の周囲には、一陣の風すら立たなかった。

ともだちにシェアしよう!