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第四章 宵の明星・8

◇◆◇  突き抜けるような青空に映える濃緑は夏の訪れを思わせるが、蝉時雨にはまだ早い。回り縁に腰掛けた和宏は、風も止んで音の途絶えた景色をぼんやりと眺めていた。  慈玄達が結界内に姿を消して、小一時間も経過してはいないだろう。その間、彼は堂の 中へ入り、よくよく見渡したが、やはり何一つ無い。扉の類さえどこを探してもみつからなかった。試しに建物の裏手も覗いてみたが、背の高い草木が壁面すれすれまで押し迫っていて、入り込むことさえ難しそうだ。溜息を溢して、正面に戻り今に至る。  いくら分は弁えているとはいえ、なにも手助けできない己の立場を和宏は歯痒く思う。  慈玄が己の経歴について、まだ何か隠している、というか言えずにいることは、彼も薄々勘づいてはいた。が、それを無理にせがんで聞き出そうとは考えていない。相手が話せる「時」が来るまで、待つつもりでいる。それでも、状況も見えず一人この場に待たされている現実は、「妖」である慈玄と「人間」である自分との隔たりを和宏に自覚させる。否応なく、増幅してゆく不安ともどかしさ。  どうにも落ち着かず、両足を揺らしていると。 「ずいぶん退屈そうだねぇ」  笑いを含んで突然聞こえた声に、和宏は飛び上がるように身を震わせた。 「あぁ、ごめんね。驚かせた?」  それは背後の堂内……結界の境界から聞こえたのではなかった。  慈玄とは違い、がっしりした筋肉質ではなくすらりとしているが、隠しようのない長身である。その体躯が、和宏の正面、ぐるり囲った雑木林と、砂利をならした境内の境目に立っている。葉の擦れるざわめきも、小石踏む足音も微塵もさせずに。 「あ、あの」  驚きはしたが、自分に向かって話しかける者に対し尻込みする和宏ではない。まじまじと、唐突に現れた者の風体を観察する。  慈海と同じ、白羽織に黒袴姿。だが、見た目の印象はずっと若い。明るい茶の短髪に、簡素な和服はあまり馴染んでいないようだ。 「えぇ、っと。あなたもその、天狗、ですか?」  だから、思わず口を突いたのはそんなぎこちない質問だった。 「一応ね。そう、だな、慈玄の『同僚』、とでも言えば判りやすいかな?」  意外に人懐こい笑みを浮かべて、新たな「天狗」は和宏に近づいてきた。颯爽と回り縁に歩み寄ると、断りもなく彼の隣に座る。 「君が暇を持て余してそうだったからさ、話し相手にでもなってあげようと思って」  馴れ馴れしい態度ではあったが、にっこり微笑まれて言われると、和宏もつられて表情を緩める。  こうして語りかける様子は、どうにも妖怪とは思えない。慈玄もかなり気さくな方だが、この男はそれよりもっと世慣れしているイメージだ。まるで、成績の良いセールスマンのような。  純真な和宏は、厚かましい相手の所作を疑わない。むしろ慈玄の顔見知りと聞いて、安堵すら覚えている。もっとも、笑顔を絶やさず初対面の相手に妙に親しげにしていても、どういうわけかこの男は胡散臭さを匂わせたりはしない。他人の懐にするりと入り込むことに長けているのだ。 「それにしても、君も災難だったねぇ。せっかく旅行に来たのに、こんなところに待ちぼうけ、とかさ」  和宏はしかし、その言葉に首を横に振る。 「いいんです、俺が、慈玄のこと知りたいって連れてきてもらったし。それに、ただの人間なのにこんなところまで来られたのって、結構すごいなって。あと」  に、と和宏は口端を上げて微笑む。 「慈海さんや、あなたにも会えたし」  茶髪の天狗は、反対にここで初めて笑みを引き込めた。  彼はいささか驚愕していた。人間が本来踏み込めない場所に、人でないものとの遭遇。自身が置かれた現状が、異様なものであることはこの少年とて認知しているはずだ。普通ならば、混乱に陥ってもなんの不思議はない。にも関わらず、畏れもせず物怖じもせず自分と対等に言葉を交わしている。慈玄の事を信頼しているのだ、自らの元へ必ず戻ると。 「ふぅん?」  慈玄がこの少年に執着するのが、少しわかるような気が彼にはした。ならば尚のこと面白い、とも。 「あっ、そういえば名乗ってなかったね。俺は慈斎。よろしくね、『和宏』クン」 「……え?えと、俺の名前」  ぽかん、と口を開けた和宏の滑らかな頬を、慈斎はするりと撫でた。 「ほんっと、可愛い顔してるねぇ。確かに、あの『慈玄なら』放っておかないかも」  頬から落とした手で和宏の顎を軽く摘まむと、くい、と持ち上げる。そして彼の唇に、自らの唇をすかさず重ねた。 「?!」  大きな瞳が衝撃に見開かれるのも構わず、慈斎は和宏の口内に舌をねじ込む。周りが静かな分、ちゅく、という湿った音が卑猥に響く。 「ん……ふ、ぁ……あ」  ほんの一瞬、ではあったが、呼吸を塞がれた和宏はふと目眩を感じた。顔を離した慈斎が、彼の口元に零れた唾液の糸を親指で拭う。 「さて、と。ここじゃさすがに不謹慎すぎる、かな?」  慈斎はぐらりと蹌踉けた和宏を引き寄せると、そのままひょい、と担ぎ上げた。 「大丈夫、痛いことはしないから。少なくとも今はまだ、ね?」  先刻までとは打って変わった、ニヤリと底意地の悪そうな微笑も声も、ひどく遠くにあるように和宏は思った。長身の天狗は背に翼を出現させると、傾きかけた太陽に向かい、和宏を抱いてばさ、と飛び立った。

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