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第四章 宵の明星・10

◇◆◇  夕餉の席には、主に山の幸を中心にしたメニューが並んだ。山菜や茸の天麩羅、川魚の焼き物、メインは牡丹鍋だった。  特に変わった様子もなく箸を進める和宏を、慈玄は訝しげに眺める。 「慈玄、食べないの?美味いよ?」  料理の腕前はずば抜けている和宏だが、他人の作ったものや外食でも実に美味そうに食べる。まだまだ色気より食い気が勝るようだ。  それは結構なことなのだが、と慈玄は思う。  結界内で行われていた自分の「仕事」については、和宏は知る由もないだろう。しかし、和宏が慈斎に「されたこと」に関してはやはり気に掛かる。  和宏は一人で「せのを荘」に戻ってきたと、女将の碧は言った。どうやら慈斎は、登山道の滝の辺りで和宏を下ろしたらしい。  もともと主に諜報の役目を担う慈斎は、他の天狗山への視察のみならず現代社会の把握のため、人間界への出入りも多い。つまり、人間たちとの接触にも別段抵抗はないはずなのだ。  にも関わらず、宿まで送り届けていなかったことも慈玄には気に入らない。当然碧とも、知らぬ仲ではないのに。 「ちょっとぼんやりしてたけど、別におかしなところはなかったわよ?」  慌てふためいて帰還した慈玄に、しかし碧はあっけらかんと告げた。 「あなたが迦葉に戻ったら、まぁ一悶着くらいはあると思っていたし驚きはしないけど。普通の人の子みたいだし、あまり巻き込むのもどうかと思うわよ?」  フロントに顔を見せた和宏に、碧は風呂を勧め、それに彼は従ったという。慈玄が部屋に戻ると、浴衣に着替えた和宏がすでに在室していた。 「おかえり。仕事、終わったの?お疲れさま」  出迎えた表情に、衝撃や虚脱は見えない。むしろなにも言わずに抱き寄せた慈玄に驚いていたほどだ。 「ちょ……ど、した?」  入浴を済ませていたため、慈斎の自信以上に証跡は消え失せていた。慈玄が感じ取れたのは、いたって微少な媚薬の匂いだけだ。だがそれでも、疑うには十分だった。 「お前、俺がいない間になんかされなかったか?」  和宏の身体がぴくりと跳ねる。俯き、頬を紅潮させながら。 「べっ、別に、なにも……」  上手いこと口止めされたか。慈玄は歯噛みする。  純情な和宏は、嘘が上手い方ではない。なにかあったことだけは明白なのだが、その度合いを計るのはこうなると困難だ。交わって気を遣ったのであれば残滓は慈玄にも嗅ぎ取れるものの、慈斎のあの言い様だとそこまではしていないと思われた。  そして定刻通りに夕食が運ばれ、今こうして向かい合っている。普段と変わらぬ健啖ぶりを発揮している和宏に反して、慈玄の食がはかばかしくないのはそういうわけであった。 「なんか、悪かったな」  何を言うべきか考えあぐねて、ようやく慈玄から吐き出された言葉はそれだった。 「なにが?」 「せっかく来たのに、バタバタしててよ。それに……」 「なんで?温泉気持ち良かったし、飯も美味いし、慈玄の知り合いにも会えたし」  他意などまるでないのは、広がる笑みでわかる。 「あ。慈海さんってかっこいいな!厳しそうだけど、毅然としててさ」 ── そういえば、こいつは父親を憧憬してたっけか。  ならば、あの手のタイプにも憧れを懐くのかもしれない。どこか照れたように打ち明ける和宏を見て、慈玄は得心した。慈海の名が出たついでに、もう一人のことも訊ねてみることにする。 「お前、慈斎にこの近くまで連れてきてもらったんだろ?」  やはり、和宏はわずかに身を強ばらせる。 「う、うん」 「やなやつだろ、あいつ」 「そう、かな……」  ところが和宏の口から飛び出したのは、思いもよらない台詞だった。 「ちゃんと送ってくれたし。それに、握った手が気持ちよかった」 「はぁ?!」  思わず箸を取り落とす慈玄。 「悪い人には思えなかったけど。だって、慈玄の同僚、だろ?」 「同僚……まぁ、そう言われればそれに近ぇもんだけど」  ふと、慈玄は初めて和宏の身体に触れた時のことを思い出す。仮に慈斎が同じようなことをしたとして、痕跡などは残らない。となれば、なにも危害を加えたり痛い思いをさせたりしたのではないのだ。敵意さえないと判れば、和宏は積極的に理解を示すに違いない。 ── やたら誰かを敵視しないのはこいつの美徳だが、物分かりが良すぎるのもちっと厄介、だな…。  肩を落として、慈玄は深い溜息を吐いた。  夕食が済むと、食器を片付け寝床を準備するために仲居が部屋を訪れた。邪魔にならないようにと、慈玄は和宏を連れ夜の散歩に出た。  旅館の目の前を流れる渓流の、川原に下りる。枝々がアーチ状の屋根を模っている天上の切れ間には、満天の星。山の中で闇が濃い分、桜街よりも見える星の数はずっと多い。川に沿って開け、今にも降り注いできそうなほど。瞬く光がせせらぎに映り、浮き世から隔離された幻想的な光景を彩っている。 「やっぱり俺、ここ好きだな」  川面に目を遣りながら、和宏が言う。 「慈玄が昔過ごしていた場所だしな」 「つっても、俺にとっちゃ良い思い出ばかりの土地じゃあねぇけどな」  苦笑する慈玄に、和宏は尚も続ける。 「それでも、慈玄のことまたちょっと知れて、俺は嬉しいよ?」  線の細い体から続く、幼さの残る手が水に触れる。夜目にも白く浮かび上がって、屈折する光を纏い輝いているようだ。 「また、来られる、かな?」  約束をしてやることは、今の慈玄にはできない。ここはまだ、和宏に危険が及ぶものが多すぎる。封じ損ねの怨霊だけではない。身内ですら、味方とは言い切れないのだ。  しかし。 「あぁ、また連れてきてやる。何度でもな」  それを承知で、慈玄は答えた。  今は約束できなくても。いつか何の懸念もなく、二人でこの地に立てるのではないか。和宏となら……そんな想いが、慈玄の胸に湧いた。予感より、確信に近く。 「あ、部屋の露天風呂入ろうぜ!出掛ける前に言ったろ?」 ── ほんと、警戒心が足りてねぇな。  思いながらも頬を緩め、慈玄は頷いた。

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