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第四章 宵の明星・15

◇◆◇ 「首尾は?」 「お尋ねになるまでもないでしょ?ご覧の通りですよ」  結界内の薄闇。ここから少し離れた封印窟は少々騒がしい様子だが、伽藍付近は反して嘘みたいな静けさだ。  灯籠に灯りは入れていない。茜に暮れゆく空を回り縁に立ち、少年のような「守護者」は眺めた。従者は室内に控える姿勢をとってはいたが、口調にはややうんざりとした気色がある。 「『アレ』の思考回路は封印によって退化してますから、活動原理は実に単純。少しばかり効き目がありすぎたんじゃないですか?」 「結構ではないか。お陰でこの場所は、斯様に静粛だ。本来ならば慈海も始末に当たるべきではないが、波及を抑えるためならばやむを得まい」 ── やれやれ、えげつないことで。  慈斎は口元を歪める。  いくら「アレ」の実体が細分化した闇だとしても、暴走している以上慈玄達を「追っていけば」簡単には済まぬことくらい承知の上だろうに。  封印窟に慈海が詰めている現状では大事にはならないはずだが、眠れる怨霊の力は今この時に至るまで未知数だ。おしなべて「人間の情念」は、妖なんぞよりも遙かに強く、恐ろしい。 「慈玄の入れ込みようは烏天狗の小僧の比ではないのだろう?されば、人間の小僧を護り抜きたくば、自らとの関わりを断つより他はないと思い知らしめるよい機会ではないか」 「えぇまぁ、確かにそうなんですけど、ね」  事はそう単純でもなさそうだと、慈斎は思っていた。和宏の根底に感じた「気」について、彼は主人に報告していない。漠然とだが、もし慈海が気付いていても、同様に口にしないだろうと踏んでいる。  身体の奥深くにたゆたう程度の気は、今後の覚醒の如何さえ怪しい。仮に覚醒したところで、どのような効力があるのかも今は判然としない。それをわざわざ伝えて、この癇癪持ちの主を殊更苛立たせたところで、自分たちにはなに一つ利は無いのだし。  それよりも。  昨日の和宏の反応を思い返しつつ、慈斎は思案する。  慈玄が昨晩彼に詰め寄ることがなかったのは、和宏が言いつけどおり詳細を語らなかったためだと推察できる。 「それどころではなかった」のも事実だが、中峰や自分の「手回し」を完全に掌握した慈玄が、加えて愛する少年の直訴を聞けば、主人はともかく少なくとも自分に何一つ手出ししないとは考えにくい。一発殴りでもしなければ気が済まないだろう。  今日は今日とて、慈海が呼び出されたと聞いた。規律に厳しい慈海が彼等の要望に応じたのも意外ならば、常日頃の苦渋面すら見せずに黙々と事に当たっていることも珍しい。  慈玄一人が相手ならこんなことはありえない。すなわち、和宏の存在がそうさせているとしか思えない。  涙で潤んだ、自分を見上げる大きな瞳。掌から緩やかに、かつじりじりと燃え上がる炎のように広がってきた、光明の如き気の流れ。 ── ただ潰すには、もったいないんだよね。 「興味がある」とあのとき言ったのは、慈斎の本心だった。というより、彼にしてみても我知らず口を突いただけなのだが。  そんな思考を巡らせていると、いつの間にか中峰がこちらに向き直っていた。訝しげに光る金色に、慈斎はわずかに身を竦ませる。 「とにかく、我が出張る必要はあるまい。慈斎、貴様はあやつらの元へ行き、事の経過を見て参れ。この上手こずるようならば、措置は貴様に任せる」 「はいはい」  茶髪の天狗は一歩腰を引くと、堂内全体を支配し始めた闇に溶け入るように消えた。気のない返事と裏腹に、じわりと高揚する感覚を懐いて。 ◇◆◇  迦葉から帰還して後、慈玄はほぼ丸一日眠っていた。疲労が抜けきらないのだ。  翌日、和宏が学校から帰宅しても、居間で横になり寝息を立てていた。 「ただいま」  返答がないので、和宏は静かに玄関を上がる。居間まで来て、畳に直にごろ寝していた慈玄を発見したのだった。 ── やっぱり。俺の知らない間に何かあった、んだろうな。  察せられるものの、直接は訊けない。自分によけいな心配をかけないようにしていると理解してはいても、和宏にとってはやはり不安であり不満でもある。  帰路の列車の中では二人揃って熟睡し、危うく乗り過ごしそうになった。その後も慈光院に到着して早々から、慈玄はずっとこの有様なのである。 「頼れ、って言ったのに。ばか」  和宏の手が、灰褐色の長髪を撫でる。指の感触に、ようやく慈玄が薄目を開けた。 「ん、ぁ……和か。悪ぃ、すっかり寝入っちまった。おかえり」  ごろり仰向けになると、今度は慈玄が和宏の頬を撫でた。 「まったく、いつまで寝てんだよ。歳のせいなんじゃねぇの?」  脳裏を過ぎる憂慮の影を押しのけ、和宏も努めて明るく言う。 「バカ言うなよ。いや……もしかしたらそれも一理、かな。『久しぶり』だったし、なぁ」  後ろの半分はほとんど独白のような呟き声で、慈玄は言った。聞きとがめても、言葉の真意を追求することなど和宏にはできなかった。 「っ、夕飯作ってくるから、もう少し休んでていいよ」 「そうか、すまねぇな。あー腹減った。そーいや今日なんも食ってねぇわ」 「え?!どんだけ寝てたんだよ!」  これには和宏も驚愕の声を上げた。 「結界内で片付け事してた、つったろ?あれが結構ハードでな。ま、なんとか落ち着いたからいいんだけどよ」  残業続きの会社員のような言い様だが、当然人間の和宏には、いかなる「人間の職業」よりも仕事の内容は計り知れない。 「風呂も沸かしとくし。早く入って疲れとれよな」  にも関わらず、人間同様の労い方しかできないことを、和宏はもどかしく思った。  夕餉の卓に、鯵の干物が並んだ。身が厚く脂も乗っており、明らかに近所のスーパーマーケットあたりには置いていない代物だと分かる。 「週末、鞍もバイト休んでたって言ったろ?兄貴と海に行ってたんだって。学校で兄貴が帰りにカフェに寄れっていうから行ってみたら、鞍が土産だってくれたんだ」 「ほう?」  そういえば出掛ける際に、和宏が言っていたのを慈玄は思い出す。休みが被ってしまったのでアルバイトの人手は大丈夫なのかと、少々懸念したという。双方、宿の予約などを済ませてしまったあと判明したので譲れなかったようだ。 「山もいいけど、今度は海もいいな」  魚を箸で突きながら、和宏が言う。 「あぁ。またどっか旅行しようぜ?」 「そういやさ、鞍も迦葉にいたことあるんだろ?鞍とは一緒に行こう、と思わなかったの?」  なにげない和宏の質問に、慈玄の箸先がぴたりと止まった。 「……まぁ、な。といっても、今現在のあいつじゃなくて、前世のあいつが、だが。前世の鞍はな、迦葉で命を落とした」  和宏も目を見開き、咀嚼する口が止まる。 「今のあいつにゃあまり関係がないし、行ってみてもなにも感じねぇかもしれねぇけどな。嫌な記憶が過ぎってもなんだから、そんなこたぁ思いも寄らなかった」 「……そ、っか」 「まぁそれ以前に、あいつぁ俺とどっか行きてぇなんてこれっぽっちも考えなかっただろうしな?光一郎とだから、一緒に行こうと思ったんだろうぜ?」  慈玄は苦笑し、曖昧に言葉をぼかした。詳細を和宏に聞かせようかと逡巡したが、事は今回の件にも抵触する。それを考えると、どうしても二の足を踏んでしまう。  和宏もまた、突き詰めて訊くのを躊躇した。知りたい気持ちはあれど、疲労困憊状態の慈玄に問い詰めるのは忍びなかった。しばらく沈黙すると、 「やっぱり慈玄て、鞍のこといろいろ考えてんだな」  ぽつりと洩らした。 「なに、妬いてんのかお前?」 「ちっ、違う!そうじゃなくて!!」  和宏は慌てて取り繕う。 「俺が慈玄と会う前は、鞍は慈玄に大切にされてて。今もそうなんだな、って思っただけで!」 「そりゃお互い様だろ?鞍だって光一郎にそーいう感情持ってんじゃねぇのか?前も言ったが、鞍は前世からいろいろ背負っちまったもんもあるし、心配はしてる。が、『一緒にいたい』という感情とは違う。少なくとも今は、な?」  そう、今護りたいのは、目の前のこの少年なのだ。  少しでも伝わるようにと、慈玄は微笑みかけた。そのために、己の全力を駆使して「これから起こりうること」に対処しようとしているのだと。 「でもなー、妬いてるなら妬いてるって、素直に言やぁいいのに」 「違うったら!い、言ったら調子にのるくせに!」 「あ、ばれてましたか」  和宏は真っ赤に照れながらもむくれて、もぐもぐと口を動かす作業を再開した。  重くなりかけた空気が、ふざけたやりとりで霧散する。とはいえ、消え去ったわけではなく部屋の片隅に蹲るように、期を見計らって態を潜めただけだったが。

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