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第四章 宵の明星・17

「ごめんねぇ、夜分にお邪魔しちゃって」  屋内に残された茶髪の天狗は、軽い調子で和宏に謝る。 「あ、だいじょうぶ、です。特に何してたわけじゃないし。お茶淹れますね!」  台所に行こうとする和宏の背に、慈斎が声をかけた。 「おかまいなく。それとも、不安?俺といるの」  迦葉で初めて逢って早々、あんなことをされたのだ。警戒されていてもなんら不思議はない。  ところが、振り返った和宏はきょとんとして 「なんでですか?慈玄が慈斎さんと一緒にいろ、って言ったんだし。俺はむしろ安心ですけど。お茶、持ってきます」  そのまま駆け去る和宏を、慈斎は驚愕の目で見送った。  やがて急須と湯呑みの乗った盆を手に居間に戻った和宏に、彼は続けて問う。畳に足を伸ばし、あくまでもくつろいでいる素振りを崩さずに。 「だって俺、君にひどいことしたでしょ?気にならないの?」  言われて思い出したのか、茶を注ぐ手をぴくりと止め、少年はみるみる頬を紅潮させる。 「あれ、は……上からの命令、だって」 ── あぁ言ったの鵜呑みにしたんだ。  バカ正直というか素直すぎるというか。意外に思うと同時に、苦笑を禁じ得ない。 「まぁ、そうなんだけど」 「だ、ったら、仕方ないですよ。怪我とかしたわけじゃないし、ちゃんと旅館の近くまで送ってくれたし。それに……」  和宏はもじもじと身をくねらせた。 「慈玄の同僚、なんですよね、慈斎さん。だったら、慈斎さんのことも俺、色々知りたいし。親しくなりたい、っていうか」 「え?」  呆れた様子で、慈斎は女子のような可愛らしい顔を凝視した。  おそらく、同様のことを慈海にも告げたのだろう。慈玄が和宏に入れあげるのと等しく、この少年もまた慈玄を心底慕っているらしい。思慕する相手の身内なら、自分も打ち解けなければ、と思っているように見える。 「君って、ほんと面白い子なんだね」 「え、そんなに変ですか、俺?」 「変とは言わないけど。いや、ある意味変かなぁ」  凌辱された相手の言葉を丸々信用し、その上まったく怯むことなく近くで接し、茶を淹れつつ世間話ができるという性格は、変わっていると言えば変わっている。慈玄とどのように知り合い、どういった経緯で現在のような関係になったのか慈斎は把握していないが、だとしても「天狗」などという、人間には理解し得ない存在を認め、かつ信頼関係を築こうとしていることでさえかなり異様だ。 「そうかなぁ。あ、そうだ、慈斎さん好きな食べ物ってなんですか?」 「…………は?」  質問が唐突過ぎて、慈斎はつい気の抜けた声を上げた。 「慈玄が頼んで、慈斎さんにこうしていてもらってるんだから、なんかお礼しないと。俺、料理は好きなんで、なんか食べたいものあったら作りますよ!」  和宏の思考具合は、慈斎の理解の範疇を遙かに超えていた。 ── なるほど、ね。こりゃあ飽きないわ。  興味がある、と言ったのが出任せに終わらなかったことは、慈斎自身にとっても予想外だった。いけ好かない慈玄の大切な存在なら、翻弄して壊してやりたいところだが。やはり、そうするだけには惜しい。改めて、慈斎は自認する。 「そうだな、君の作ってくれるものならなんでもいいけどね」 「え、そうなんですか?慈海さんにも同じようなこと言われました。天狗って皆そうなのかなぁ」 「え、ちょ、慈海にも同じこと訊いたの?」  お堅い慈海と、ありふれた会話があまりにも結びつかなくて、慈斎は思わず吹き出す。和宏の口から飛び出す言葉は、彼の度肝を抜いてばかりだった。  お陰で、影ながら気で制していた部分に油断が生じた。パンッ、と大きな音がして、居間の照明が消える。 「えっ?!な、何。停電?」 「やれやれ、慈玄に付いて分散したと思ったのに、面倒だな。……伏せて!」  慈斎は飛びつくようにして和宏を抱きかかえると、頭を押さえて身を低くさせた。そして式符を取り出すと、宙に投げる。  もう一度、バシンッ、という破裂音。小さく喉を鳴らして、慈斎の下で和宏が頭を両手で庇う。黒い靄の塊が、闇の中で散り散りになったのを、慈斎は確認した。 「拙い、取り逃がした、かな」  立ち上がり和宏の肩に触れると、微かに身を震わせている。 「ごめんね、怖かった?今すぐに片付け……」  さする手を、ぴたりと止める。肩の震えが不意に止み、和宏は緩慢に身を起こした。 「……和宏、くん……?」  自らの掌を見つめていた和宏は、指を折ったり伸ばしたりを繰り返す。そして慈斎へ振り返ると、にぃ、と両口端を引き上げた。 「……コレハ、善キ『器』ガ手ニ入ッタ……」 ── 「器」、ね。  暗闇の中、ゆらりと立ち上がった「和宏」に対峙して慈斎は眉を顰めた。不覚を取ったとはいえ、これは彼にとっても予期せぬ失態だった。  霊が「取り憑く」ことは、一部の人間にはままある。対象の人間の背後や肩口にぴったりと貼り付き様々な霊障をもたらすが、所詮は「外側」にいるものだ。能力のある術者の手にかかれば、よほど霊の力が強く接着剤のように密着していない限り、それこそ埃のように「祓い」除けられる。  だが完全憑依、つまり「身体を依り代にし乗っ取られる」場合は別だ。調伏に手間がかかるのは無論だが、それ以前に「憑依状態」になる人間は至って少数に限られているのである。憑き物筋の家系の者か、霊を体内に受け入れ身体を貸与する「憑坐(よりまし)」としての鍛錬を積んだ者か。  人間の「意識の力」というのは、存外に強い。すでに霊魂のみである存在が、その「元の意識」を押しのけ身体に入り、言語神経や運動神経を操るのは、実はかなり困難なのだ。稀に強大な妖力をもってして無理矢理憑依する霊や妖もいるが、今和宏の体内を支配しているのは「分散した霊の一部」のはずだった。元は手の付けられない怨霊とはいえ、一度は封印され、加えて慈玄等が大方を押さえていることを考慮すると、霊自体が持つ力の強さ故に和宏の内へ入り込めたとは言い難い。  家系が代々憑き物筋ならば大抵姓氏は知れているし、顔を合わせれば傍系でもすぐに分かる。和宏にその血は流れていない。だとすれば。 ── 聖職っぽい気を持ってるとは思ったけど、まさか憑坐の素質があったなんて、ね。  さて、どうやって和宏の中から追い出したものか。慈斎は軽く唇を噛んだ。 「ほんとに、慈玄もろくでもないモノを背負いこんでくれたもんだよ」  符に修祓の術をかけて投げ付ける。が、「和宏」が片手で遮ると、札は瞬時に跡形もなく消え失せた。 「モハヤコノ程度ノ術デハ、妾ハ除ケラレヌ」 「でしょうねぇ」  相手を睨み据えながらも、慈斎はニヤリと笑む。怯んだら、負けだ。 「返シテ欲シイカ?コノ身体」 「そりゃあね?でないと俺、慈玄になにされるか分からないし。まだ命は惜しいんでね」 「ナラバ天狗、コノ身体ヲ犯セ」 ── おいおい、またとんでもない事をのたまいやがりましたよこの霊は。  努めて軽妙な調子を保ち、慈斎は霊の真意を探ろうと試みる。 「どういうこと?永いこと封印されてたせいで、人肌が恋しくなった?」 「抜カセ。貴様ノヨウナ冷エタ身体、妾ハ興味ハナイ。コノ小僧ノ身体ヲ辱メヨ、ト言ッテオルノダ」 「えぇ、冗談でしょ?睡姦はあんまり趣味じゃないんだけど。せっかく情を交わした相手が、俺の身体の記憶覚えてないとか真っ平御免だよ」 「案ズルナ。小僧ノ意識ハ醒メテオル。デナイト意味ガ無イカラナ」  怨霊は和宏の顔で、喉で、邪悪に笑う。 「意識ハアルノニ抵抗出来ズ、ムザムザト姦通ヲ許ス。小僧ニトッテハ屈辱デアロウナァ」 ── まったく。慈玄もろくでもないけど、こいつもつくづくろくでもないね。  呆れ返りはしたものの、慈斎はたたらを踏む。和宏を抱かなければ、宣言通り霊は身体から出ていくことはないだろう。しかし、仮に従っても退く保障はない。  身体を通じれば、慈玄にはすぐに分かる。「何もしない」と言う約束も反故になる。慈玄が怒りによって、暴走する危険も孕んでいるのだ。 「サテ、ドウスル天狗?見レバ『巫女ノ気』ハ未覚醒。コノママ妾ガ居座レバ、小僧ノ意識ハ崩壊シヨウゾ」 ── 巫女、だって?  和宏に眠る気の正体は、巫女のものだというのか。ならば、ある種の「切り札」になり得るかもしれない。慈斎は考えを巡らし、そして、腹を決めた。 「あぁもう、わかりましたよ。にしても悪趣味甚だしいよね、人の情事を傍観して楽しむなんて、さ」 「ナントデモ言エ。主様ガ……『妾ヲ思イ出セバ』ソレデ構ワヌ」  思い出せば?  微妙に話が噛み合っていないように感じ、慈斎は少々首を捻る。とはいえ、今はそれを深慮する時ではない。 「ごめんね、和宏君。俺としてもこういうのは気が進まないんだけど」  あるいは……彼自身の性分には見合わないが、もう一度和宏を「信じてみよう」と思ったのか。山での恥辱に口を噤み、自分を信用し、怖れず接した和宏を。 「犯セ。小僧ニ貴様ノ精ガ通ジタコト、思イ知ラセテヤルガ善イ」  和宏自身の意識がその時甦ったのか、瞠った瞳に怯えの色が過ぎったようだった。その目を掌で慈斎は塞ぎ、少年の身体を抱き寄せ首筋に甘く歯を立てた。

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