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第四章 宵の明星・21

◇◆◇  寝起きの悪い和宏は、揺り起こしても一時ぼうっと虚空に視線を泳がせていた。 「……慈玄?やっぱり帰ってたんだ。夢見てたのかと思った」  どうやら、未明に一触即発だった二人の天狗の諍いを止めた記憶もおぼろげらしい。ゆるゆる首を巡らすと 「あれ……慈斎さん、は?」  ごく自然な疑問を口にした。 「あ、あぁ、帰った。大変だったな、お前」 「そっか、帰っちゃったんだ。俺、多分ちゃんとお礼言ってないや」  慈玄の言葉が聞こえているのかいないのか、ぼそりと言うと立ち上がり、登校の支度をするために自室としている部屋に向かった。  慈玄の用意した朝食を摂っている間に、和宏は徐々に目覚めてくる。 「慈斎さんも、朝飯くらい食べていけばよかったのにな」 「やけに気に掛けるな、あいつのこと」 「そりゃそうだろ?!慈玄の代わりに俺を護ってくれたんだぞ?」  意気込んで言い切った。 「あっ、そうだ。今度ここに来たら、飯一緒に食べてもらおう!好きなものは聞き出せなかったけど」 「お前、慈斎にも聞いたのか、それ!」  茶碗を取り落としそうになるほど、慈玄は驚いた。物怖じしないにも程がある。状況はどうあれ、二度も辱めを受けた相手に。 「仲悪いの?慈斎さんと」 「まぁ、決して良いとは言えねぇなぁ」 「でも、一回くらいいいだろ?実際俺助けてもらったんだし」  じ、と顔を凝視され懇願されれば、折れるしかない。 「……はぁ、わかったよ。それはともかく、その『慈斎に助けてもらった』件だが」  慈玄はそこで、声の調子を改める。 「お前、どこまで憶えてんだ?なんか気付いたこと、とか」  びくっと和宏が身を強ばらせる。 「正直、あんまり憶えてない。ただ、俺の中になんか別の人がいて。おんなのひと、だった、と思う」 「そうか」 「すごく怒ってて、それでいてとても哀しそうで。慈斎さんも、その……」  いくら抵抗もままならなかったとはいえ、後ろめたい気持ちも拭えないようだ。和宏はそこで、言葉を濁した。 「俺がお前にシてるようなことをされたんだな?慈斎に」  躊躇いながらもこくり、と頷く。そして膝を進め、慈玄と向き合い、和宏は彼の手を取った。 「俺、慈玄が好きだよ?慈斎さんに触れられてても、頭に浮かんだのは慈玄のことだった。それに気付いたら、俺の中のひとが本当に辛そうに、悲しそうに震えて」  目を潤ませ俯いた和宏を、慈玄は不意に抱き締めていた。意図せず「憑坐」となった少年は、怨霊の心情に同調してしまったのだろう。精神を蝕まれはしなかったが、間違いなく心痛を負っていた。 「すまねぇ、和。怖い思いさせたな?」 「うぅん?でも……だからこそ俺、慈玄と一緒にいたい、って思った。そのひとの想いも受け止めて、刻んだ上で、慈玄と一緒にいよう、って」  身体を離し、慈玄に向けられた和宏の笑顔は、意志の強さをはっきりと表していた。その頑ななまでの決心は、罪の意識を抱える慈玄の胸を深く抉った。 ◇◆◇  慈斎の予告どおり、そのまた数日後、慈海が慈光院を訪れた。  迦葉で怨霊の封じ込めを一晩にわたって行った慈玄の疲労は、和宏と「旅行」した時の比ではなかった。終始ぐったりとしていて、過日と同様暇さえあれば睡眠をとっていた。  その日は日曜だったので、家事などは和宏が懸命に片付けていた。土曜はカフェに出勤したが、慈玄のあまりの倦怠ぶりに翌日は休みを取って、寺での雑務に宛てたのだ。  午前中に一件入っていた法要を済ませた後、慈玄は居間の卓袱台に突っ伏した状態のままだ。それを気にかけつつ洗濯と掃除を和宏が済ませた頃、玄関から来訪を告げる声がした。 「慈玄、いるか?」  聞き覚えのある低音に、和宏は駆け付ける。 「え、ぁ、慈海、さん?!」 「やぁ、君か。慈玄はいるかね?」  少年の大きな瞳は、ちょっとした衝撃に見開かれた。  目の前の慈海は、和装ではない。ダークグレーの三つ組みのスーツにネクタイ。山で見た、修験者然としたうねりのある長髪をぴしりとなでつけ、後ろでまとめている。顔を覆った漆黒の髭のせいで普通のサラリーマンというには少しかけ離れていたが、異国の身なりの良い紳士のような雰囲気を醸し出していた。 「どうした?」  ぽかんと口を開き固まった和宏に、慈海は首を傾げる。 「す、すみません!え、と、山であったときと、なんかイメージ違ったから」 「あぁ、下界へ降りる用事は明るいうちに済ませたいのだが、そうなると飛行で移動するわけにはいかないのでな。列車で、となると現代の洋装をせねばならんのだが。おかしいかね?」 「い、いえ!とんでもない!!」  首をぶんぶんと横に振る。  まじまじと慈海を見返すと、和宏はようやく相手を認識しかたのように気を取り直した。 「あの、慈玄、仕事で疲れてるらしくて。居間で休んでるんで、上がって下さい。今お茶淹れますから!」  和宏に案内され慈海が居間に入っても、慈玄は卓袱台に頭を乗せた体勢。その頭を横に捻って、来訪者に目を向けた。 「よぉ、お早いお出でだったな」 「なんだ、だらしがないな慈玄」 「うるせぇ。お前さん、俺の封印術ずっと見てただろうが。あんなん久しぶりすぎて、身体も頭も痛ぇよ」 「修行が足りんいい証拠だろう。下界の住職の座は相当気楽なようだからな?」 「なに言ってやがる、てめぇがタフなだけなんだよ。ま、元々人間の身であそこに居続けるだけのこたぁあるとは思うが」 「ならば貴様は、そんな私より回復が早くて当然のはずだが?」  ったく、どいつもこいつも口が減らねぇ、慈玄は口の中でぼやく。  慈玄と慈海が他愛のないやりとりをしている間に、和宏が茶を運んできた。おずおずと、それぞれの前に湯呑みを置く。 「あの……慈海さん、お茶、どうぞ。俺、邪魔だと思うんで奥に行ってますね。おかわり、必要だったら声掛けてくださ……」  盆を抱いて膝を引いた和宏を、慈海が遮り呼び止めた。

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