118 / 190

第四章 宵の明星・23

「鞍吉君のときは、彼にまとい付くだけだったから闇はさほど膨張しなかった。彼が消え、気付いた我等で取り押さえ、軽度の術で封印し直せる程度だったのだ。まぁ、その代わりにそれより格段に手間のかかるものを封じなければならなかったがな?」  慈海は慈玄に、睨むような視線を送る。 「不可抗力だろうがよ。あんな汚ぇ真似されりゃ、こっちだって沸点に達するっての」 「そこが貴様の修行が足りんところだというのだ。辛うじて甚大な被害は免れたが、一歩間違えば貴様はこんなところにすら居れなかったのだぞ?」 「え。手間のかかるもの、って、慈玄?」  目を丸くする和宏に、渋い顔で慈玄が答える。 「まぁ、な。ちっとブチ切れちまってな、里をひとつ壊滅状態にしちまった、らしい。そのあと捕まって、百年ほど穴蔵に放り込まれた」 「らしい、って……」  和宏は、困惑して慈玄を見つめる。気まずそうに口を噤んだ彼の言葉の続きは、慈海が引き継いだ。 「この男は今は天狗だが、かつては凋落した末端の神でな?封じてはあるものの、根底には計り知れない力を秘めている。本来はそれを制御し、迦葉の守護に使わねばならんのだが、この通りの放蕩ぶりだ。中峰様……我等の主だが、その中峰様はそれを快くは思われておらん。だが無理矢理帰還させても、こやつの力を存分に利用することができぬばかりか、暴走して手に負えなくなる可能性もある」 「そんなにすごかったの、慈玄?」  尊敬とも畏怖ともとれるような感想を和宏は洩らしたが、慈玄は口元を歪めたまま。 「別にすごかねぇよ。過去の俺は、今となっちゃ悔いることばかりしてきたからな」 「左様。その最たるものが『アレ』。慈玄に強い執着と恨みを持つ『怨霊』だ」 「……おん、りょう……」  慈海は一度茶を啜り喉を湿らせ、加えて語った。 「慈玄が迦葉に属される際『アレ』も共に封じられたのだが、これはこれで力の程度が推し量れない。それでも手厚く封印されれば、時をかけて浄化に向かうはずだった。しかしこれが、どういうわけか燻り続けたままなかなか成仏に至らない。そんな中、慈玄が放浪の末鞍吉君を連れ帰り、彼にかまけるようになった。そこで中峰様は慈玄に本来の仕事をさせるため、一計を案じたのだ。すなわち『アレ』を利用する、という」 「あぁ。あの野郎、わざと封印を緩めて、鞍にあいつをけしかけたんだ」  歯噛みして、慈玄は言った。 「え……でも、なん、で?主、って偉い人、なんだろ?なんでそんなひどいこと」  和宏の声も震えている。そんな謀略を仕掛けられたら、慈玄が怒るのも無理はない。少年の想いを察しながらも、慈海は教え諭すような口調で淡々と述べた。 「おそらく、中峰様はなにも鞍吉君の命を奪おうとまでは考えなかったのだろう。彼を迦葉から追い出せればそれで良かったのだ。だが、結果は思わぬ方向へ転んだ」 「だけど!鞍はそのせいで」 「鞍吉君は『妖』だった。厭うべき闇だ。喰い喰われ消滅することもあれば、術者によって祓い去られることもある。元々存在が忌まれる者故、消え去ったとしても誰の憂虞にもならなければ差し支えにもならない。それが、『妖』というものだ」 「だって慈玄はそれで!!」 「いいんだ和、感情はどうしてもあるもんだからな。そん時の俺は怒り狂って暴れたが、本当はそんなことすらやっちゃいけなかったんだよ。……肝心なのは、そこじゃねぇんだ」 「あぁ。『妖』ならばそれでも致し方ないのだ。問題は、同じ手を再度中峰様が採ろうとしたことだ。『人間』に対して。つまり、和宏君、君にな?」 「お、れ……?」  和宏は愕然と眼を瞠った。 「そうだ。転生した鞍吉君の行く末を見届けるという大義名分でしばしの下界滞在を認めさせた慈玄が、鞍吉君が手元を離れたようなのに一向に戻る気配がない。その要因はどうやら一人の人間の少年らしい。幸い、鞍吉君と違い健全な精神の持ち主のようだから、少々脅かしてやれば慈玄の方が慌てるだろう。そう踏んだらしいのだな。ところがここでも重大な手違いが生じてしまった」 「怨霊の力が、想定以上に強大に膨れあがっちまったんだ。あんなもん人間一人脅かす代物じゃねぇよ」  慈玄は盛大に舌打ちを鳴らした。 「そういうわけでな。先日、慈玄と私とで大掛かりな封印術を施した。粗方それで片は付いたのだが、すべて完了したとも言い切れん。相変わらず怨霊は闇を取り込み続け、浄化される気配は見えんのだ」  事の重大さを認識したのか、和宏は息を呑んで放心していた。元来人間とは相容れぬ、「妖」という存在の深淵を思い知ったかの如く。  一時黙りこくっていたが、不意に顔を上げると小動物のような仕草で首を傾げた。 「あの、聞いてもいいですか?」 「なんだね?」  思いの外深刻さの見えない表情に、慈海が不思議そうに応じた。 「なんで、その『怨霊』の力は膨張しちゃったんですか?その中峰、さんは、慈玄を山に還すために利用したっていうけど、そういうことなら怨霊なんて使わなくても、別の手段だってよかったわけですよね?しかも予想外に大きくなっちゃったとか、危険なのに」  慈海と慈玄は不意に顔を見合わせた。すぐに背けた慈玄は口を尖らせ頭を掻き、片や慈海はわずかに苦笑を浮かべ、肩を竦める。二人の様子を見て、和宏は尚更解せぬといわんばかりに眉根を寄せた。 「言ってやったらどうだ?慈玄」 「はあぁ?お前の前でか?!」 「お前の前もなにもないだろう。今に至るまできちんと和宏君に言わなかった罰だ」  慈玄は諦めたように、背を丸めて嘆息した。 「はぁ、それぁな……今俺にとって、お前が一番大切な存在だからだよ」 「………………えっ?」  一瞬和宏は固まり、真っ赤になってばっと顔を俯かせた。慈海の前で、慈玄から突如告白めいた言葉を改まって言われたのがひどく恥ずかしかったらしい。当の慈海は素知らぬふりで、また一口茶を喫していたが。 「そういうことだ。怨霊は、昔慈玄に強い恋慕を懐き、嫉妬に荒れ狂った者だからな。こやつが別の者に深い愛情を注げば注ぐほど、妬みによって拡張するのだ」 「……ぇ、あ……」  冷静に解説されて、和宏は一層紅く染まる。 「中峰様も、そこはやや見くびっていたのだろう。脅し程度の攻撃で終わるはずの目論見が外れた。慈玄の君への想いは、殊の外強かった、というわけだ」 「……は、はぃ…………」 「お前さんにんなこと言われると、背中がむず痒くって仕方ねぇや」  慈玄も所在なさげに髪を掻きむしり続けた。 「……ぁ、あの、それ、で。俺にできることって、何かありますか?ほんとは、ちゃんと自分で考えなきゃいけないんだろうけど」  ひとしきり照れていた和宏だが、姿勢を正し顔を上げると、真っ直ぐな眼差しを慈海に向けた。強い意志が伝わる視線に、彼はまたもや感心する。鞍吉の事には辛そうな面持ちを見せても、自らが立ち向かわねばならぬ現状には、この少年はしっかり前を見据えるのだと。 「君は、慈玄の傍にいたいのだろう?」 「はい」 「ならば、その決心を揺らがせんことだ。君になら、それができるだろう。手数のかかる男だが、君が共にありたい、という限りはそうしてやって欲しい」 「は、はい!」  和宏は再び恥ずかしげに頬を赤くし、しかし嬉しそうに頷いた。 「ところで。慈斎から君が憑依されたと聞いたが。それは大丈夫なのかね?」 「あ、はい。身体は何ともないです。霊の……おんなのひとが自分の中でもがいているみたいだったのは苦しかったけど」 「そうか。今回のことは偶さか条件が重なっただけかと思うが。今後も何かあるようならば私も相談に乗ろう」  言うと、慈海は腰を上げた。 「あれ?慈海さん、もう帰るんですか?」 「あぁ。経過と、君に事の詳細を伝えに来ただけだからな」  つられて立ち上がりかけた和宏を、怪訝そうに見下ろす。口籠もりながら、少年は膝を擦り合わせていた。 「あの、もうちょっといられませんか?忙しいなら、無理にとは言えない、んですが」 「いや、あと少しくらいなら構わんが。心配事でもあるのかね?」  まだ聞きたいことが残っていたのだろうかと訊ねる慈海の意に反し、和宏はぱっと笑みを広げた。 「ホットケーキ!山で言いましたよね?すぐできるんで、せっかくだから食べていって下さい!」  返答を待つより先に、和宏は台所へ駆けていく。 「やれやれ、逞しいな」  ふっと口元を緩め、慈海は卓袱台の前に座り直す。頬杖をついて見ていた慈玄が、ニヤリと口角を上げた。 「そういうあいつに、俺は救われんだよ」 「貴様が救われるばかりでどうする。気丈だが、まだ子どもだ」 「わかってるさ。ありがとよ、適度にごまかしてくれて」 「嘘は言っておらん。乗り移られたとはいえ、あの子は『アレ』の正体までは読み取れておらんのだろう?」 「……あぁ……」  戯けた笑みを慈玄は引き込め、真顔に戻る。 「いつかそれも全部話さなきゃなんねぇとは思うが。今はまだ、な」 「だろうな。あの子を貴様と引き離す計画が無に帰した中峰様が、次にどんな手を打つかわからん。今は、これ以上彼を混迷させるような話は避けるべきだろう」 「すまん。お世話をおかけしますね、慈海様」  甘い香りが、居間にも漂い始めた。楽しげに調理しているであろう和宏の背を、壁を隔てて見守るような視線を二人の天狗はその方角へ送っていた。

ともだちにシェアしよう!