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第四章 宵の明星・24

◇◆◇  初夏の下校時刻は、まだ陽が高い。あと半月もすればじめじめした雨続きの季節になるが、今のところは夏に向けて強くなりかけている日差しが降り注いでいる。  部活もアルバイトも無かったので、和宏は真っ直ぐ帰宅の途につこうとしていた。桜校高等部のバスケットボール部は、実を言えば部員数がさほど多くない。三年生が進学のため、引退してからは尚更だ。故に、練習日数は週数回に留まった。だからこそ和宏もアルバイトと両立できたわけだが、どちらの予定もない日は少々手持ち無沙汰になる。  学校と桜公園を繋ぐ並木道を歩いていると、名を呼ばれた。 「?」  声のする方に目を遣っても、深緑の葉をたたえた桜の木があるだけだ。 「こっちだよ、こっち」  笑いを帯びた声が、また聞こえる。その主は、突如浮かび上がるようにして現れた。スラリと背の高い、軽妙な姿。 「慈斎、さん?!」 「驚いた?この間はどーも」  最初に逢ったときと変わらぬ、人懐こげな笑顔。濃色の綿シャツにブラックジーンズという、カジュアルな装いの慈斎が、和宏の視線の先にいた。この軽そうな男が天狗だなどと、傍から見て誰が思うだろうか。 「どうしたんですか?また怨霊が、とか?」  先日の騒動を警戒して、和宏が周囲を見回し声を潜める。 「うぅん、ただ君に会いに来ただけだけど」  そんな和宏の意に反して、慈斎はしれっと言い放つ。 「まぁ、あんなこともあったからねぇ。ちょっと心配だったし」  慈斎にしてみれば、無論それは方便だ。お得意の嘘、とまでは言わないものの、憑依された和宏の以後を気に掛けてわざわざここまで参上したのではない。しかし素直な和宏は、相変わらず彼の言葉を全面的に信用した。 「そうなんですか、すみません。でも、俺もあのときはちゃんとお礼言えなくて。本当に、ありがとうございました!」  礼を言い、深々と辞儀をする。 「別に俺は、たいした事してないけどね?」 ── それどころか意にそぐわない形とはいえ、慈玄の寵愛する身体を味見できちゃったし。  内心思いながらも、そこは黙っておいた。慈玄や慈海が、彼に自分の事をどう説明しているのかこのときはまだ推し量れなかったからだ。  予想どおり、数日前慈海が慈玄の元を訪ねたことは、慈斎も把握していた。慈海が迦葉を発つ前に、慈斎は和宏の様子や素質について、彼に耳打ちした。与えた材料を、慈海がどのような話に発展させて和宏等と会談したのかはわからない。この日和宏を待ち伏せて接近したのは、そのあたりを探る目的もあった。今後の己の動き方も、如何で左右される。 「あ、お礼したいから、今晩ご飯食べに来てください!あの夜も言ったけど、俺料理は好きなんで」 「今晩?でも、慈玄が嫌だって言うんじゃないかな。急だしね」 「そ、っか。あんまり仲、よくないんです、よね」  近づくな、とまで釘を刺されたのに、連れ立って寺へ行くのはさすがに憚られた。それに和宏の口からなにか聞き出そうにも、隣に慈玄がいたのでは牽制される恐れがある。 「そうだ!じゃあ、クレープでも食べませんか?嫌いじゃなければ、ですけど。俺奢りますから!」  自分の方からどこかへ誘おうかと思っていた慈斎だが、言い出す前に和宏から提案された。当然乗らない手はない。 「そういうなら、ご馳走になろうかな」 「よかった!学校の裏の公園に、クレープ屋の車が来るんです!」  和宏は慈斎の袖を掴んで引いた。  この少年は、警戒心が著しく欠如しているのではないだろうかと、慈斎は思う。その方が自分の仕事はやりやすいので助かるが、簡単に気を許されると拍子抜けするというか、逆に油断してしまいそうになる。 「あの夜、俺が寝てる間に慈斎さん帰っちゃったから、ちょっと寂しくて。またすぐ会えたから嬉しいです」  照れた様子で、和宏はそんなことまで言う。かすかに罪悪感めいたものが胸を過ぎるのを、慈斎は自分でも意外に感じ、かき消した。 ── こんなことで絆されてる場合じゃない、よね。  内心で自らを戒めつつ、和宏に従い丘へ続く坂道を登っていった。  学校の裏手にある丘の上は、平され公園になっている。この街のかなりの面積を占める桜公園よりはずっと小振りだが、校舎の屋上を隔てて景色が広がり、見晴らしは良い。暗くなれば、夜景も楽しめるだろう。カップルがひっそり訪れるにはなかなか最適かもしれない。  和宏の話によれば、クレープ屋のバンはこの時間、ほぼ固定してこの場所に店を開けているという。平日にここまで登ってくる人間はそう多くはなさそうだが、学生たちはよく知っていて、放課後立ち寄る者が結構いるらしい。車体側面に連なったメニューに端から目を通し、楽しそうに和宏が迷う。 「うーん、イチゴチョコにしようかな。慈斎さんは?」 「あ、じゃあバナナカスタードで」  笑顔で頷き注文する様を、慈斎は車の傍に設えられたベンチに腰掛け眺める。やがて、両手にクレープを持った和宏が弾むように隣に座った。 「はい、どーぞ!」 「ありがと。いただきます」  料理が得意だという少年は、どうやら食べる方も相当好きだと見える。もくもくと頬張る仕草は、草食の小さな愛玩動物のようだ。 「んー、美味い」 「うん、ほんとに美味しいねぇ。……チョコ、付いてるよ?」  つるりとした頬に飛んだ茶色の斑点を、肩に手を置くと慈斎は素早く舐め取った。 「っ?! ちょっ、じ、自分で拭きますよ!」  その頬が、即座に真っ赤に染まる。急速な変化が慈斎には面白い。 「あはは、ごめん。こっちもなんだか美味しそうだったからさ」  つっ、と舐めた痕を指でなぞると、和宏は耳まで赤くした。 「べ、別にいい、です」  顔を背け、和宏は咀嚼に専念する。 「おや、警戒しちゃったかな?」 「警戒、っていうか。恥ずかしい……です。慈斎さん、恥ずかしくないんですか?」 「なにが?」 「そ、その。舐めたりする、のが」  和宏はどんどん小声になる。 「周りが明るいと恥ずかしかったかな?」 「明るくなくても恥ずかしいです!!」 「でも、慈玄とはする、でしょ?」

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