124 / 190
第四章 宵の明星・29
◇◆◇
「まったく。甘っちょろいとは思ってたけど、ほんとどこまでも甘っちょろいねぇ」
月明かりも無い闇夜。更に闇の深い山中では、呟き声でさえ通る。つい溢してしまった口を、慈斎は塞いだ。握って丸めた紙片は、細かな粒子となって散り散りに空気に溶ける。
── それにしてもこの式、慈玄の気よりあの子の気の方が強いみたいじゃない。
放ったのは慈玄だろうが、和宏の気は明らかに色濃い。念はまだ疎らで断片的にしか読み取れないものの、要点は伝わった。伝わったのだが、どうにも突拍子のないものに慈斎は思えてしまう。
慈斎には、なぜ和宏がそこまで食事に拘るのかが理解できない。否、食事そのものが重要な意味を持っているわけではないのは判っている。
どうやら和宏は、「食の団欒」というものを非常に盲信している節がある。親睦を深めるのに、食事を共にするのが有効な手段だと。もしかしたら、和宏だけではないのかもしれないが。
人間たちから情報を得るときの手順を、慈斎は思い返す。確かに、人間は腹を割って歓談しようとする際は、まず食事に誘う。酒が加わる場合もある。彼等にとって、それは社交する上で順当な方法なのだろう。
だから、和宏の思考自体は別段意表を突くものではない。が、かの少年がこうして誘ってくるのには、おそらく含意は存在しない。言うなれば単純に「一緒に食事がしたい」のだ。
盲信してはいるが、あくまでも無意識下である。逆に言えば「その機会が比較的少なかったがために、渇望している」とも思われる。明るく前向きな和宏の根底に、「皆での食事を望む」一抹の寂しさが眠っていることを、慈斎は意外に感じる。と同時に、興味深くもあった。
だとすると。
「自分につくか、慈玄につくか」の選択をほのめかした慈斎の言葉は、和宏にはこちらの想定以上にショックを与えたかもしれない。思えば、憑依された怨霊にまで、和宏はその心情を慮っていた。自分の生命すら危機に追いやったものだというのに。
── 光、か。
そう考えれば、慈玄が和宏に固執するのもよくわかる。孤独な妖にとって、それは理解に難くともとてつもなく魅力的であるからだ。何かに満たされず彷徨う霊が、その欠落を埋められ成仏する過程に似ているとでも言おうか。
元来少年が持つ、巫女の気のせいばかりではないだろう。むしろ和宏の「本質」が、持ち合わせている特徴ではないか。
もう少し、和宏を観察してみたい。慈斎の裡に、徐々に高まってきた欲望はそれだ。慈玄と和解するのはぞっとしないが、和宏に近づくためなら。
「慈斎」
突然背後から名を呼ばれ、背筋が硬直する。振り向けば、闇と同化しそうな漆黒の髪と髭。
「なんだ、慈海か」
「なんだ、ではない。貴様、今式を受け取ったであろう?」
さすが、と小さく吐き捨てて、慈斎は口元を歪めた。
「慈玄からか?」
「慈玄、っていうよりは、あの子からの恋文、かな」
「またたわけたことを。だが、確かに慈玄の気だけではなかったように思う。和宏君は覚醒しておるのか?」
「まさか。まだそこまでじゃないね。……けど、もしかしたら思いのほか、中峰様には脅威になるかもねぇ?」
ふむ、と慈海は思案顔になる。
「貴様が虚偽、とまではいかぬが曖昧な報告をしていることは、中峰様も気付いておられる。一度下界に行き和宏君を見てみたい、とも申されてな」
「ハッ、やっぱりね。けど中峰が下界に行くなんてまずありえないでしょ?山からは離れられないんだから」
「無論。だが、その例外中の例外が起こりそうなほど緊迫してるということだ。あの子の気質を中峰様が知れば、抑えにかかるのは間違いない。それがいかなる手段になるか、だな」
「他人事みたいに言ってるけど。あんただってあの子に絆されかけてんでしょ、慈海」
「絆される、とは心外だな。人間である彼を、無闇に危険に晒すのが不本意なだけだ」
── それを絆されるって言うんだよ。
そう指摘したいのを、慈斎は呑み込む。
「ともかく。そのような事態となれば、貴様は案内役にされるだろう。ボロが出ぬよう、重々注意することだな」
「……ご忠告、感謝しますよ」
慈斎は軽くいなしたが、二人の天狗は互いに深刻な表情を交わしていた。一度は衝突を避けられない予感を、双方懐きつつ。
◇◆◇
下校時刻。先日と同じ木の陰に、慈斎は立っていた。
あの日と違うのは、慈斎から和宏に声を掛ける前に和宏がその姿を見付けたのと、梅雨入りにはまだ間があるにもかかわらず、重苦しい曇天模様だったことだ。
「慈斎、さん」
和宏が真っ直ぐに駆け寄る。慈斎はいつもと同じ笑みを貼り付けていたが、厚い雲の下でこの時期のこの時間にしては晴天の日よりも薄暗いからか、かすかに翳りがあるように見える。
「やぁ、和宏君」
だが、声の調子に変化は無い。
「式、届いたの?」
「うん。すごいね君。ちゃんと伝わったよ」
「そ、っか、よかった。慈玄が手伝ってくれたんです。俺の気持ちを伝えた方がいいだろうって」
わかってはいたが、改めてよくも慈玄がそれを許したものだと慈斎は思う。自分と和宏には、もう二度と顔を合わせてほしくないと考えているであろうに。
「そう。にしても、君もよくよく懲りないよねぇ。あんなことまでしてわざわざ忠告してあげたのに」
「……っ!」
慈斎から一歩離れた場所に立っていた和宏が硬直する。気付いてもあえて更に冷めた口調で、慈斎は重ねて言った。
「俺の言ったこと、わからなかった?慈玄が自由気ままに下界で遊んでるの、俺は気に入らないの。君みたいな子を傍に置いて、さも楽しげに人間みたいな生活を満喫してるのが、ね。一応俺は、君と慈玄の仲を裂いて、慈玄を帰山させるように中峰から言われて来てる。そのために君のことを全部、逐一洩らさず報告してるんだよ?」
和宏はじっと、下唇を噛んで俯く。それでいい、と慈斎はたたみかける。慈玄の考えるとおり、和宏は自分となど関わらぬ方が良いのだと。
「一緒に食事しようとか、そんな俺が了承すると思った?いくら君を気に入っていても、いがみ合っている慈玄と同席でとか。無謀だとは思わなかった?」
嫌うなら、それで良い。そうすれば下手な情けはかけずに済む。慈斎の思ったとおり、和宏は目線を下げたまま肩を震わせていた。
「そういうわけだから。そうはっきり言おうと思って、今日は来たんだ。精々、慈玄と仲良く今の暮らしを続けるといいよ?」
口角を皮肉につり上げ、慈斎は立ち去ろうとした。ところが。
「……それでも」
声に慈斎が振り向くと、和宏は顔を上げていた。しっかりと、慈斎を見据えて。
「それでも、俺は諦めません。慈斎さんが俺を助けてくれたことは事実だから。慈玄と仲が悪いなら尚更、俺のことなんて放っておいたはずですよね?」
怨霊が襲ってきた日の未明、慈玄に殺されかけた時のことを、ふと慈斎は思い出した。寝惚けていたように見えたが、和宏はあの出来事を本当は全部覚えているのではないだろうか。
離れた距離を、和宏は歩を進めて埋める。そして慈斎の手を掴むと、力強く握った。
「俺は、慈玄と離れません。でも、慈斎さんとも仲良くしたいんです。嫌いになんてなりたくない。だから、何度だって式を送ります。俺は人間で、ちっぽけだから何もできないかもしれないけど。俺を気に入った、って言ってくれたからには、俺も慈斎さんのこともっと知りたいんです」
繋いだ手から、もう何度も慈斎が感じた温かな気が巡る。有無を言わせぬほど強く、それでいて健気な光。
「頑固なんです、俺」
そこで和宏は、照れたように笑う、極めて自然に。
慈斎は、己が敗北したことを知った。この少年は、こうと決めたらどんな困難な課題をも信念を貫き乗り越えてしまうのかもしれないと。そんな相手に、のらりくらりと出任せや偽りでやり過ごしてきた自分が敵いなどしない。少年の潜在に秘める可能性を、慈斎はまざまざと目の当たりにした気がした。
「はぁ、わかったよ。とりあえず、君の提案は受けるとしようか」
「よかった!あれも無駄にならなくて!」
あれ、とは何か。慈斎が今日、ここで和宏を待つことは当然誰にも予告していない。なのに無駄にならない、というのは。近日中に慈斎が訪れることを信じて、和宏は食材を多めに買い込んでいたのだろうか。
── まぁ、どうでもいいか、そんなこと。
掴んだままの手を引いて、和宏は寺に向かって歩き出す。
「あの、ダメだったらやめますけど。さん、って付けなくてもいいですか?なんかその、慈斎、とはもっと近い感じ、するし」
相手の様子を窺いチラチラと顔を後ろに向けながら、突然和宏はそんなことを言い出す。どちらも切り捨てられない、という想いを裏付けるように、慈玄と同等にそうしたいらしい。
「別に構わないよ?その代わり、俺も和、って呼んでいいかなぁ?」
「うんっ!今日は腕によりをかけて美味い飯作るからなっ!」
承諾したとたん敬語まで消滅していたのには、慈斎も思わず苦笑した。
重たい雲が、泣き出すことはなかった。明日になれば雲は切れ、再び晴れ間がのぞくだろう。和宏に手を引かれながら、慈斎はその空を夢想していた。
ともだちにシェアしよう!