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第四章 宵の明星・35

◇◆◇  翌日の夜。  アルバイトを終えた和宏が帰路の途中、慈玄が迎えに出ていた。雲は多く残ったものの、この日は晴れ間も覗いた。星はあまり見えなかったが、月明かりは路面に届く。 「よぉ、お疲れさん、和」 「慈玄」  影のかかった慈玄の表情は、やや暗い。  中峰と慈斎が立ち去って後、寺に留まる二人は情を交わし、ぴったりと寄り添って眠った。自ら打ち明ける前に過去の悪行を暴露され、精気を失った慈玄を、和宏の光……気が受け止め包み込んだ。朝には気力を取り戻したように見えたが、和宏には心配も残る。  学校はともかく、アルバイトくらいは休もうかと提言したが、慈玄は笑って「大丈夫だ」と彼の頭を撫でた。学生の身分故、カフェへの勤務日数がさほど多くない和宏は、生真面目なだけに急な欠勤を躊躇う。それは慈玄もよく分かっていた。  加えてどうもここ最近、和宏の出勤日には鞍吉が休暇を取っている場合が多いらしい。週末や祝祭日といった繁忙時は別だが、平日に至っては狙い澄ましたようにシフトが重なるのを避けているという。休んだり、早番であったり。調理補助もこなせる和宏は、鞍吉の穴を埋められる。容易く変更はできないと以前から溢していた。  鞍吉の件は置いても、明かされた慈玄の秘密は、和宏自身の心にも陰鬱を落としたままだ。  表に出せば相手も苦しむと、裡に押し込め普段どおりに接しているが、戸惑いはそうそう消えるものではない。ふとした瞬間に浮かび上がり、学校で一人ぼんやり思いを巡らせては涙ぐみそうにもなった。慈玄を案じ早めの帰宅を考えながらもカフェに向かったのは、仕事でもしている方が気が紛れると当人が考えたためでもある。  接客をしながら気を取り直しつつあった和宏を、慈玄が路上で出迎えた、というわけだ。閉店まで勤め上げれば遅い時間にはなるので今までもこういうことはあったが、時が時だけに、和宏の胸に不審が過ぎった。 「ど、したの?お、お腹でも空いた?」  敢えて茶化すように付け加えた和宏に、慈玄は首を振る。俯き、少し逡巡する様子を見せると、重そうな口を開いた。 「慈海から式が届いた。慈斎が、中峰にとっ捕まったらしい」 「え?」  慈海からの伝達によれば、こういうことのようだ。慈斎は中峰を追って帰山したが、すぐに主の前には参じなかった。まずは封印窟に向かったのだという。  式の気配を消すのに怨霊の闇を絡ませていた中峰は、やはり封印を巧妙に緩めていた。四方に貼られた札と注連縄に、完全に破られぬ程度で隙間が空けられていた。見習いの天狗たちは元より、慈海や慈斎でさえ、注意深く観察しなければ気付かないほどの細工。違和感は、涌き水か鉱泉の水脈くらいであった。  目をこらしてそれを見付けた慈斎は、すかさず封じた。  自浄作用も備える霊山は、わずかな闇など遺留させない。それに、怨霊はそもそも慈玄に執着するものである。漏れた闇は微細な糸となり、まるで送電線よろしく桜街の慈光院へ繋がっていた。慈斎は、それを断ち切ったのだ。  和宏や慈玄を護るため、というよりは、最初から信頼されていなかった反感もあったのだろうと慈海は告げる。  例の騒動、怨霊が和宏に憑依したあの晩以降、中峰はどうやらそれを駆使して下界の様子を探っていたらしい。和宏の気の正体までは読み取れなかったようだが、結界の張られた慈光院の敷地内以外……寺の周囲、学校や桜公園、カフェ付近に糸は張り巡らされていた。 「問題は、貴様等が住む街に、この闇の糸が完全に溶け込んでしまったことにある」  気難しい様子で、慈海の式は伝えた。 「中峰様の思惑よりも、高度な効果をもたらしたのだな。慈斎としては掌の上で転がされたように感じて、面白くなかったのだろう」  かくして、目を走らせていた桜街の様子を突然閉ざされた中峰が、これに気付かぬはずもなく。慈斎の仕業とすぐに見付かり、結界の伽藍前に引きずり出された。 「俺はちゃんと仕事してたのに、あんな小細工されたんじゃ面目丸つぶれでしょ?」  彼は白々と、そう悪態を吐いたというのだが。 「仕置きを喰らったが、小賢しく逃げたようだ。だが妖力を削られた状態では、たとえ迦葉の外に逃走してもみつかるのは時間の問題だろうな」 「え……慈斎、どうなっちゃうの?」  詰め寄り、和宏は慈玄の袖を握る。 「さぁなぁ。逆らったなら、それこそ封印窟にでもぶち込まれるか」  掴まれた腕を取り、慈玄はしゃがみ込んで心配げな顔をじっと見つめた。 「和。俺ぁ正直、あいつのことなんかどうだっていい。ほんとはこのこともお前には黙っていようと思ったんだが。昨日、もう隠し事はしねぇと約束したばかりだ。だから話した」  男にしては少々華奢な両腕が、細かに震えている。大きな手がそれを宥めるように擦る。 「俺はお前に危険が及ぶような真似はもうしたくねぇ。しかしお前の意志によっちゃ、それに付き合おうと思う。どうしたい?」  きゅ、と下唇を一度噛んだ和宏は、深く呼吸をしてから慈玄に実直な視線を向けた。 「俺、何もできないと思うけど。慈斎の傍には、行きたい」  静かだが、揺らがぬ強さを声に響かせ。それを聞いた慈玄も、息を吐いて立ち上がる。 「そう言うと思ったよ。まだ最終電車には間に合うだろ。今すぐ行けるか?」 「うんっ!!」  学校帰りの支度のままだが、そんなことは構っていられない。来た道を引き返し駅へ向かうと、コインロッカーに鞄を預け、慈玄と共に制服姿の和宏は電車に飛び乗った。

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