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第四章 宵の明星・34

「こやつはな、己の快楽の為に男女問わず姦淫し、面倒になったら自らが使役していた鬼に生きながら喰わせていた。相手は人妖構わず、その数も百に下らない。よいか、妖だけならいざ知らず、『人間も』相当数殺しておるのだ」  鈴の音のような軽やかさであるのに、少年の声はぞっと総毛立つほど冷酷に響く。 「犠牲になった者の中で、一人の人間の女が、こやつに深い恨みを懐いた。それこそ、妖の我等でさえ手を焼くまでの執念深さでな。人間、特に女の怨恨は、時に妖ですら凌駕する。女は、慈玄の手にかかった他の犠牲者の怨念までも自らに取り込み、膨らみ続けた。貴様を襲った『怨霊』の正体はそれだ」  和宏の双眸が徐々に、しかし愕然と見開かれる。こわごわと後方へ振り向けば、慈玄は下唇を噛んで口惜しそうに俯いていた。 「それだけではない。こやつの凶悪な『本性』は、我が封じ抑えているだけだ。いつ、どのような切欠で暴走しないともまだ限らぬ。烏天狗の小僧が消滅した時のように、な?」  それを聞き、和宏は思い出す。鞍吉が命を落とした際、里一つを崩壊に追いやっていながら慈玄はそれを「あまり覚えていない」と言った。つまりひとたび覚醒が始まってしまえば、誰の声も届かない。ひたすら破壊を遂行する「化け物」と化してしまうのだと。  中峰は一歩退き、和宏から離れる。とん、と軽い足踏みをすると、蛇のように這っていた荒縄はするすると中峰の手に収まり、そのまま煙のように消えた。 「分かったか小僧。こやつは人間が、それがたとえわずかばかりの聖職の気質を持っていたところで、どうにかできる者ではないのだ。いつまでも下界に放置すれば貴様のみならず、貴様の家族、既知の者に至るまで害が及ぶやもしれぬ。それでも良いのか?」 「……っ、で、でも」 「無念だが、時間切れだ。我は下界には長く留まれぬ」  言うだけ言うと、中峰は背を向け縁側から表に出た。月の光はどんよりと、薄雲を通して滲む。庭の暗がりに下りただけで、小柄な姿は闇に溶け込んで見失ってしまいそうだったが、振り返った横顔は白く、その場に浮かび上がった。 「くれぐれも申し伝えておくが小僧、我はあくまで厚意で言っておるのだぞ?人間の、そして未完熟とはいえ聖の気を持つ貴様に対する情けだ。しばし時をやる。よくよく考えることだな」  白い顔は、背に広がった漆黒の翼に隠れた。少年の痩躯を全て包み込んでしまいそうな幾重にも重なった羽毛が、風切る音を立てて羽ばたく。 「慈玄、貴様もだ。つまらん意地を張って、小僧を窮地に追い込ませぬようにな?」  飛び立った中峰の後ろ姿はみるみる小さくなり、雑木が乱立する裏山の上空へと消えた。茫然自失となった和宏が我に返り、慌てて追って庭に立ったが、天を見上げてももう小さな黒点すら見えなかった。  慈玄は座敷で、同じ姿勢のまま直立している。和宏の後ろにそろりと添うたのは慈斎だった。 「さて、と。俺ももう行かなきゃ」  ぽつり、と洩らした慈斎を、和宏は跳ねるように省みた。 「い、行くって?」  こみ上げる不安が、和宏の裡にじわじわと浸透する。 「こうなった以上、俺もまったくお咎めなし、というわけにはいかないだろうからねぇ?一旦山へ戻るよ。すぐにどうこうはならないと思うけど」  和宏の頭をくしゃりと一撫でして、慈斎はさも気の無いように淡々と言った。 「もしかして、もう会えない、の?」 「そんなことはないよ。多分、だけど」   否定はしたものの、慈斎の返事は歯切れが悪い。それをわざとごまかすように 「和、ショックかもしれないけど、中峰の言ったことは全部事実だよ。妖って所詮、人間とは相容れないものなんだ。大した意味もなく、人間に危害を加える奴等も少なくない。慈玄が暴走したら危険なのも本当だし。それでも、和は慈玄の傍にいる?」 「……っ」  和宏の視線が泳ぐ。ぱくぱくと口を開閉させているが、言葉は発せられないようだった。 「無理もないよ、急に言われても、ね?ちょっと悔しいけど、もう一度良く考えてみて、っていうのは、俺も中峰と同意かな」  返答は無い。が、和宏は何を思ったのか、慈斎の手を取りぎゅ、っと握った。慈斎はその手に自分の掌を重ねると、ぽんぽん、と軽く叩く。そして一本一本指を外すようにして、解いた。和宏の手が離れる頃には、彼の背にも翼が出現していた。 「じゃあね、和。いつか、また」  もう一度手を握ろうと伸ばした和宏の手は、空振りに終わる。すう、と地面を離れた慈斎は、中峰と同様見る間に曇天の彼方に隠れた。  それを見送り、和宏はとぼとぼと居間へ上がる。残された慈玄は膝をつき、項垂れていた。 「……慈玄?」  そろ、と声をかけると、灰褐色の長い髪の隙間から、金色がかった目が覗く。 「和」  普段の快活な光彩が全く見えない瞳に、和宏はたじろぐ。 「び、びっくりしたな!中峰さん、突然来るんだもん。これが一番偉いひとなのかって、俺驚いちゃ……っ!」  笑顔を浮かべ、いつも通りに振る舞おうとした和宏の横に、太い腕が伸びる。  何も言わず、慈玄は彼を力強く抱き締めていた。和宏の身が強ばる。  抱き返そうと持ち上げた両腕は、意に反して宙に浮く。行き場を失い軽く握って開いた手が、慈玄の袖口を掴んで止まった。 「すまん。隠し通すつもりじゃぁなかった、んだが」 「……わかってるよ」  何度も打ち明けようとしていたことは、和宏も承知している。それに続いて、慈玄が言おうとしていたことも。 「中峰の言う通りだ。俺ぁな、自分がいつ、何をきっかけに覚醒し力を暴発させるのか、俺自身にもよくわからねぇ。鞍の時みてぇに感情が昂ぶるのもそうだが、それ以外でも、どうやら鍵、みてぇのがあるらしい」 「鍵?」  和宏の肩に顔を埋めたまま、慈玄は頷く。大柄なこの男に似合わず、弱々しく。 「あぁ。その鍵がかかってる状態だから、俺は己を保っていられる。だが、そいつが一度でも外れてしまえば、俺はお前のことすらくびり殺してしまうかもしれねぇ」  抱いた背がびくりと跳ねた。反射的に、和宏が腕の中で身を捩る。  それに気付いた慈玄は、縛めを解いた。身を離し、少年の細い両肩に手を置く。そしてじ、っと大きな双眸を見つめた。 「な、和。今ならまだ間に合う。鞍のことなら俺もなんとかすっから、お前は家に戻って、俺のこたぁもう忘れてくれていいんだぜ?」  頬を撫で、笑いかける。しかし細めた目に覇気は無い。憔悴しきった慈玄を、和宏はとても見ていられないとばかりに目を逸らした。  と思いきや。不意に視線を戻すと、 「なに、言ってるんだよ。慈玄だって約束してくれたろ?一緒にいる、って」  笑みと共に返す。不安は、まだ瞳に漂う。声も震えたままであったが。 「そ、りゃ、ちょっとは驚いたけど。でも、なんでかな。俺、慈玄になら襲われても構わないかな、って思っちゃった」  和宏の頬に触れていた慈玄の指先を、ぽろりと落ちた一滴の涙が濡らした。 「和……」 「けど、そんなこと、したら、一緒にいられなくなるから。駄目、だからな?」  先ほど躊躇して止まった腕は、今度は迷わず、慈玄の背に回った。 「慈玄。俺、子どもだしただの人間だし、何もできない、かもしれない。気がどうとか、って言われたけど、中峰さんの言うように俺にはそんなの全然わかんないし。だけど、想うことはできるよ。慈玄だって、自分の力のことで苦しんでんだろ?だったら……俺でいいなら、傍にいたいよ」  堰を切ったように和宏の目から涙が溢れる。それを押さえるようにして、再び慈玄も和宏の頭を掻き抱いた。 「あぁ……そう、だな。俺もそんな鍵が外れないよう、お前の声だけはどうなってもちゃんと届くよう、お前のことを、もっと想わなきゃな?」 「うん、うん……」  ひとしきりしゃくり上げていた和宏だが、しばらく泣いたら落ち着いたのか、慈玄の肩から離れて赤くなった鼻を照れ臭そうに擦った。 「へへ。でも俺、中峰さんに嫌われちゃったかな。名前も覚えてくれなかったし」 「気にすんな。ああいう奴なんだよあいつは」 「それでも、ちょっとへこむよ。色々画策したっていうけど、そんな悪い人には思えなかったし」  中峰がなにも、自分や和宏に憎しみや恨みを向けているわけではないことは、慈玄も理解している。多少気紛れで手段を選ばぬところはあるが、基本的には「迦葉山の守護者」としての責務を果たしているに過ぎない。仏の使いと呼ばれはしても、結局は闇の者だ。情とは切り離した部分で威厳を保たなければ、立場はない。中峰は、その部分に極めて峻烈なだけなのである。  分かってはいるが、もはや慈玄には己の欲が先に立つ。和宏と共にありたいという欲、同じ想いを持ってくれる和宏との約束を違えたくないという欲。罪を犯した者には許されぬことと知りつつも、せめて和宏が自ら、自分の手を離す日が来るまではと。 「な、慈玄。俺が知らないこと、もう無い?」  顔を覗き込んだ和宏に問われ、慈玄は我に返った。 「ん?あぁ、もうなにも無い」  あるとすれば「鍵」のこと。例の「怨霊」に関わることであったが、それは長い歳月と、天狗として一度「生まれ変わった」ことで、慈玄自身にも相当曖昧になっている事項だ。中峰に捕らわれ力を封じられた際に、詳細な記憶も押し込められてしまったらしい。思い出そうとすれば、それこそ「鍵」に抵触しかねない。 「そ、っか。じゃあ、もういい。俺、今よりもっともっと、慈玄のこと想ってずっと一緒にいられるように考えるから」 「和……ありがとな?」  こつ、と互いの額を合わせた後、ゆっくりと唇が重なる。何度もついばむように、そして深く、舌が絡み合う。  じんわり熱を帯び始めた和宏の身体は、もう震えてはいない。だが、涙はまた溢れ出していた。和宏の光を……「有無も定かでない」と中峰が評した温かな「気の流れ」を確実にまとい、キラキラと反射しながら。  己を包み込む光の粒子を辿るように、慈玄は和宏の肌に指を滑らせていた。

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