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第四章 宵の明星・33

◇◆◇ 「慈斎、喜んでくれてよかった」 「まぁ、お前が満足ならそれでいいが、箸にはちっと驚いたわ」  二人だけになった慈玄と和宏は、居間で茶を啜っていた。風呂が沸くまでのひとときである。 「ごめん、勝手なことして」  申し訳なさげに肩を下げた和宏に、慈玄は苦笑を返した。 「いいさ。お前が慈斎や慈海に気ぃ遣ってくれるの自体は、俺もそんな悪い気しねぇし」 「気を使ってるわけじゃないけど。むしろ、俺のわがままで慈玄困ってないか、とは思うよ」 「思ってねぇよ。お前があいつらと親しくすんの、俺のためでもあんだろ?」 「う、うん。でも、皆俺のために色々助言してくれるから。俺もなにか返したいな、って」 「お前がそーゆう考え方すっから、あいつらもお前になんかしてやりてぇ、って思うんだろよ。こういうのぁ互いに互いを、っつう連鎖、だからな」  髪を優しく撫でる慈玄の手を、和宏はくすぐったそうに受ける。 「そろそろ風呂、いいかな」 「あ、じゃあ俺みてく……」  その時、引き戸ががらりと開く音が響いた。 「誰か来た?」  立ち上がった足で、和宏が玄関に向かう。 「和……」 「あれ、慈斎?どうしたの?なんか忘れ物……?」  言いかけて和宏は、慈斎の背後にあるもうひとつの人影を見た。 「なんだ、本当にただの人間の小僧ではないか」  すぐさま気配に気付いた慈玄が、後から駆け付けた。 「中峰、お前」 「中峰、さん……これが」 「一段上から見下ろすとは。無礼な奴等め」  顰め面でも尚麗しい少年が、ずかずかと屋内に上がり込むのを誰も引き止められず、その場に凍り付いたように三者は目で追っていた。  勝手知ったる我が家の如く、少年の姿の天狗は奥へ進む。居間の床の間辺りに立つと、後を追った慈玄等の方へ向き直った。 「悠長に説明するほど我は暇ではないので手短に言う。慈玄、即刻帰山せよ。例の怨霊の浄化が極めて困難であることは、貴様も身に沁みて分かったであろう。アレは貴様と共になら、浄化は厭わぬと申しておる」 「え、ちょっ!」  中峰の言葉に澱みは無い。 「なんだ、まさか不服とは言うまいな?」 「そっ、そうじゃねぇ、けど。アレの封印を手薄にしたのは中峰、貴様の責任だろうが!」 「我の手抜かりだと言うのか?元はと言えば『あんなもの』を生じさせたのは貴様の不徳のせいだ。それを始末し貴様も子飼いとしてやったのに、いまだにろくな恩義も返してもらってはおらん。時は満ちておる。いい加減、山の肥やしとなれ、慈玄」 「まっ、待って下さい!」  完全に話に置いていかれた和宏が、ようやく口を挟んだ。 「あのっ、な、なんで慈玄はそんな急に帰らなきゃいけないんですか?そりゃ、怨霊のことはあるかもしれませんけど、この間だって、ちゃんと山で封じてきたって」  うるさい虫の羽音に反応する体で、中峰は和宏に目を向けた。 「貴様か、共に居るという小僧は」  頭から爪先まで、値踏みするように和宏の全身を眺める。 「ふん。直に見たところで、何の変哲もないただの小僧ではないか」  その言いぐさに、慈斎は違和感を覚える。中峰が和宏の気質に気付かないとは思えない。どうやら淡く漂うだけのそれは、自分達の懸念と裏腹に「鼻にもかけていない」ようだった。 「小僧、じゃありません。和宏、っていいます」  名乗った和宏に、中峰は侮蔑の視線を投げる。 「貴様の名などに興味はない。よいか小僧、命が惜しくばこんな男と離れ、人間らしく凡庸な日々を過ごすがよい。これは、貴様のような小僧の手に負える者ではない」  す、と伸ばした中峰の両手に、どこからともなく荒縄の束が現れた。もう和宏には一瞥もくれずに。 「観念しろ慈玄。どうしてもこの場に踏みとどまると言うならば、またこれを使わねばならぬ」  じり、と慈玄が後ずさる。慈斎は息を呑むだけで、当然手出しはできない。 「覚醒して暴れられても困るのでな。消耗するが、致し方あるまい」  中峰が口の中で呪を唱えると、荒縄が大蛇よろしくうねりだした。まさしく、鎌首をもたげて襲いかかる直前、 「だっ、駄目です!!」  蠢く縄の先が、不意にゆらめいて動きを止めた。 「和……」  中峰の前に、両腕を広げた和宏が立ちはだかる。慈玄を庇って前に立ち。 「だめです、中峰さん。俺、約束したんです、ずっと、何があっても慈玄の傍にいるって!」  しかし中峰は和宏を見ず、先端を下げもそりと地を這う荒縄に目線を落とした。 「慈斎」 「……は、え?!」  急に呼びかけられた慈斎は、止まっていた時を戻されてびくりと顔を上げた。 「これは、一体何事だ?」  瞬間的に気の流れが弾けたのは、慈斎にも分かっていた。縄の動きを止めたのは紛れもない、和宏の気だ。さすがに縄に通った念を消し去るまでには至らなかったが、小石を投じたような隙を生じさせた。ここで初めて、中峰は和宏の「素質」を認めたのだ。 「なるほど。まったくただの小僧ではない、ということか」 「……いや、それは……」   慈斎の返答など待たず、中峰は得心していた。 「まぁ良い。で、慈玄?貴様は、その小僧を覚醒させて、自らの封印を担わせるつもりか。その半人前の、あるか無いかも定かではない力を」 「んな気はさらさらねぇよ。別に、罪を無かったことにしようとも思ってねぇ。せめて、あと少し、もう少しだけ時期を遅らせてほしいだけだ」  ぎ、と慈玄は中峰を見据えて宣言する。 「小僧も、それで納得しておるのか?」 「ってか、和は関係ねぇだろ?!無闇に覚醒させる気もねぇって今……」 「そうは行かぬ」  中峰は前に歩み出ると、和宏の真正面に立った。和宏よりもわずかに背は低いが、睨め付け見上げる黄金の瞳は、強烈な威厳を放って身動きを縛った。  取るに足らないと思っていた力が発動され、当初危惧したように和宏を抑えにかかるかと思いきや、中峰はまったく違うやり方で一同を凍り付かせた。 「傍にいるだと?馬鹿馬鹿しい。貴様、こやつがどのような罪悪を犯したのか知っておるのか?」 「っ!中峰、待て、それはっ!」  にやりと歪んだ中峰の口から飛び出したのは、慈玄が敢えていままで茶を濁し続けた、和宏には極力知られたくないと願った過去だった。

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