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第四章 宵の明星・32

◇◆◇  曇り空だからだろうか、五月にしては湿ってひやりとした夜風が過ぎる。食事中のふざけた空気に戻してから、慈斎は寺を出た。和宏は二人を咎めながらも楽しそうで、再会を何度も約束した。 「はぁ、なにやってんだろうね、俺は」  嘆息し空を仰ぐも、慈斎もまた穏やかな心情になっている自分に気付く。 ── やっぱりこれも、絆されてる、って言うんだろうなぁ。  慈玄に一泡吹かせ、出し抜いてやりたい、そう考えて和宏に近づいたはずの自分。だが今となっては、和宏との関わり自体が彼の目的となっている。気質のせいだけではあるまい。しかし慈玄に「指摘」した闇を惹きつける和宏の光は、確実に己にも作用していると知る。頭では理解していても、到底抗えずに。  慈玄のように甘ったるい「愛情」など、慈斎は信用していない。そんなものはまやかしだと考えている。だから、これは光に吸収される闇の「法則」だと彼は分析していた。  一方で。長らく生きてきて尚、感じたことのない、どこか柄でもない「感情」が、じわりと胸の裡を支配する時がある。この天の邪鬼は、それをも自身で欺き続けてはいたのだが。  湿気が、密度を一時増したように思えた。 「いい気なものだな、慈斎」  声にならぬ声が、慈斎を震撼せしめた。気配にすかさず振り向く。 「慈玄をさっさと封印させたいのは、貴様も悲願であろうとこれまで遣わせてやっていたのだが。まさか、こんな形で油を売っていたとはな」  ゆらりと、闇が揺れる。仄白いぼやけた光は、やがて幼げな少年の姿を模っていた。 「どうし、て。もしや、自分で式を?」  徐々に明確になる輪郭に、慈斎は眼を瞠った。 「嘘でしょ?中峰様とはいえ、空気のぶれひとつ感じさせない式なんてありえない」 「貴様等と一緒にするな、無礼者」  すでに表情まではっきりと映し出す幻影は、さも実体が喋っているように口を動かす。  これは、あくまでも中峰の念による分身だ。ただし、ここまでのものを表すには、それ相応に気の乱れが本来ならば生ずる。声が届き、慈斎が裡に聞くまでまったく勘づかないなど、これまでであれば決して考えられないことだった。 「我の目が届かないであろうのをいいことに、貴様は慈玄等と結託したのか?愚か者めが」 「結託?とんでもない。これも監視の一環ですよ」  努めて軽い口調で、慈斎が返す。言い訳など通用しないとわかってはいても。 「たわけ。ならば何故、小僧をとっとと慈玄から引き剥がさん?しかも貴様、やはり我に何か隠しておろう?」  表情は変えずとも、慈斎は内心震え上がった。 ── くそ、どこからどこまで見てたっていうんだよ。 「あの怨霊めの一部が、浄化された気配がある。それも『不完全な形で』だ。アレがここまで流れてきた日、慈玄は大半を迦葉へおびき寄せ封印の術を行ったはず。ならば『その処理』は誰がした?」  慈斎はそこで、中峰が微妙に思い違いをしていることに気付く。「和宏を襲った怨霊の一部」を蹴散らしたのは、慈斎だと思っているのだ。だから、即座に自分と慈玄達が手を組んだと言い放ったのだと悟る。  和宏の気は、未だ微弱だ。面と向かった者でない限り読み取れないほどの。ならば、直接対峙したわけではない中峰が、それを認知していることは多分ない。  今に至るも和宏を「普通の人間の小僧」だと、この主が思っていることは安堵しなくもないが、状況は決して思わしくない。どちらにせよ、慈斎は裏切りを働いたことになっている。 「間抜けな貴様等には察知などできなかったであろうが、その浄化され損ないの闇は、どういうわけかこの場に溶け込み、留まった。まだ大した動きは無いが、どうやらここには、別の『闇の種子』があるようだ。お陰で、命令に背いた貴様を問責することができたのだがな」  中峰の目論見が、ようやく慈斎にも読めた。怨霊の封印を緩め、桜街まで慈玄達を追わせたのは、なにも和宏を脅すためばかりではなかったのだ。いくら慈玄が絡め捕り、あの夜迦葉まで持ち帰ったとしても、あれだけ空気を澱ませていた闇の残滓はこの場所に残る。同じ闇を式に纏わせて放てば、カモフラージュになるだろう。慈玄や慈斎が式の気を感じ取れなかったのは、それが要因だったのだ。 「今はそのような事どうでもよい。もはや、貴様の報告では役には立たぬ。一度自ら検分してくれるわ」 「……っ」  怖れていたことが、現実になろうとしていた。 「でっ、でも、貴方が山を離れるのは禁忌では?」 「罪人を延々と野放しにする方がよほど問題だ。とはいえ、長居はできん。貴様にまだ我に忠義を尽くす意志があるなら、案内せよ、慈斎」  否定すれば、この場で捕縛され、封印窟に投げ込まれるのは目に見えていた。 「……承知しました」  忸怩たる想いが顔に現れるのを隠すように、慈斎は深く頭を垂れた。  彼の前に立つ幻像が、にわかに質感を帯びる。どうやら中峰は既に迦葉を出立し、近くで式を操っていたらしい。月の無い曇天の宵、妖の秘かな移動には格好の晩だ。  地面を踏む秘めやかな足音がしたとたん、黒い羽根が小柄な背に消える。 「参るぞ」  慈斎の返事を待たず、袴姿の少年は先に立って歩き出した。

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