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第四章 宵の明星・37
◇◆◇
「ほんとすみません、急に」
部屋に和宏を案内したあと、茶漬けを運んできた碧に、和宏が頭を下げる。
「気にしないで。慈玄から連絡はもらってたし、部屋も空いてたから」
以前泊まった客室とは違い、部屋付きの露天風呂は無い。よほどの繁忙期でない限り、この部屋まで埋まることはないと碧は言った。
「窓からの景色も、この部屋は林に面しててあまり良くないから、ランクが下なの。基本的には満室に近い状態でも『どうしても』って言われた時だけ使用する、予備の客間、ってとこかしら」
そのため万が一の際、深夜の来客にも対応できるという。元々山荘らしい備えか。
目の前に置かれた丼を見て、和宏は思う。慈玄は夕食を摂ったのだろうか。
カフェに和宏を迎えに来たときには、ここにも連絡を入れていた。つまり、和宏が山へ向かわぬ選択をするとは、最初から考えていなかったのだろう。だとすれば、手筈はすべて整えて和宏の意向を聞いたことになる。もし行かないと言っても、慈玄だけは帰山するつもりだったのかもしれない。
「冷めないうちにどうぞ。腹ごしらえはしっかりして、不測の事態にも備えなきゃ、ね」
碧がどこまで事態を掌握しているのかは計り知れないが、言われるまま和宏は茶漬けに箸を付けた。
「お風呂も開けておいたけど、使う?」
「いえ、内風呂でシャワーを使います」
こんな時に温泉にゆったり浸かるのは、さすがに気が引ける。和宏は礼を述べて辞した。
「あの、俺布団自分で敷きます。女将さん、明日も早いですよね?もう休んで下さい」
言って和宏は、空になった丼を碧に手渡した。
「ご馳走様でした、美味しかったです」
「お粗末様。そう?じゃあお言葉に甘えようかしら」
気兼ねも心配する素振りも見せず、女将はすぐに部屋を下がる。下手に気を使うと和宏の杞憂がいや増すと察してのことだった。
「何かあったら、いつでもそこの電話で呼び出してね。お客様なんだし、遠慮しなくていいのよ?」
そう言い残して、襖を閉めた。
押し入れにあった布団を敷き、独りになった和宏は溜息を吐いた。時刻は0時を回っている。陽が昇ったら慈玄が戻るのならば、待つのはさほど長い時間ではないはずだ。だが、言いしれぬ不安は充満している。それまでに、慈玄は本当に戻れるのだろうか?
── 考えても仕方ない、かな。信じるしか…。
照明を消して、制服のまま横になる。浴衣に着替えても落ち着かない気がして。
外には乱雑な木々しかないという窓の外で、微かに、しかし確実にそれを叩く音に和宏が気付いたのは、ようやくうつらうつらと眠気を覚えた時だった。
最初は二回、続けて三回。規則的なリズムを刻む。ガラス窓の内側にはカーテンの代わりに障子戸があり、外の様子は見えない。起き上がって恐る恐る近づいた和宏は、障子に手をかけた状態で声を投げてみた。
「誰か、いる?」
ざ、と風が枝を揺らす音。その間を切れ切れに、囁くような返答があった。
「……和……?」
聞き取った和宏が、急いで障子戸とガラス戸を続けざまに開いた。
「……慈斎」
黒い羽根を広げたままの慈斎に、怪我を負っている様子はない。だが、暗く見えるのは樹木の陰影のせいばかりではあるまい。明らかにやつれ、憔悴している。
「や。昨日あんなこと言った割に、案外早く会えちゃったね」
にも関わらず、慈斎は戯けた調子で言う。
「こんなところからで悪いんだけど、中に入れてくれないかな」
手を貸し、和宏が室内に引き入れると、やっと背中の翼が消え去った。転がるようにして、慈斎は畳の上に膝を着く。深い呼吸を何度も繰り返していた。
「だっ、大丈夫?」
「ん……」
返事はしたものの、どう見ても大丈夫とは思えない。
「なんとか、中峰の目が届きにくい穴場に逃げ込んでたんだけど、ね。慈玄の気が近づいてきたのを感じたから、もしかしたらと思って。式で探ったら、この部屋に和がいるのを
見付けた、ってわけ」
見るからに苦しそうだ。照明の下で検分しても、顔色がよくない。
「迦葉から出ても、これじゃあ長く持たない。お節介なことに慈玄が乗り込んだみたいだけど、ここじゃ中峰は万全だから分が悪い。俺が戻れば、一旦は事が治まるかな、ってね。でも、いると判ったら、最後に和の顔が見たくなっちゃった」
昨晩会った時と同じ笑み。しかし普段の飄々とした人懐こさも、皮肉な感じも態を潜めている。力無く、弱々しい。
「最後、になんてならないよ。でもよかった、また会えて」
身を支えるようにして、和宏はそっと慈斎に抱きついた。ゆっくり、腕に力を込める。
「ん、そう、だね……」
自らをも謀るという天の邪鬼の言葉も、気弱なせいか真実に聞こえる。本人がどう思っていたかは別として。
「けど、今慈玄がどういう状況になっているのか、俺もわからない。あいつは俺のことなんて、どうだっていいんだろうけど」
「ううん、そんなことないよ!」
和宏がかぶりを振った。
「俺が慈斎の傍に行きたい、って言ったから慈玄がここまで連れてきてくれたんだもん。きっと、慈斎を助けるつもりだったんだよ」
「ほんと、あいつ和には甘いから、ね」
和宏から身を離して、慈斎は体勢を変えた。息を吐くと、真正面の少年をじっと見つめ直す。
「だったら尚更、どうなってるか。和がここにいるんだから、慈玄も暴走は抑えるだろうし。あいつと一緒にいたい、んでしょ?和」
ぐ、と喉を詰まらせる和宏。結局二人のうちどちらかを、中峰の手元に戻さなければ赦されないのか。あるいは、二人共。
唇を噛み、ぎゅっと自分の服を握った和宏を見て、慈斎は努めて穏やかに笑いかけた。
「ね、陽が昇る前に、慈玄のところへ行ってみる?どこまで入れるか、は、行ってみないとわからない、けど」
「いいの?行ければ行きたいけど。慈斎は?大丈夫、なの?」
「ん、なんとかなるよ。俺がここにいる、のは、中峰にも、勘づかれた、だろうし……っ!」
慈斎の肩が跳ねた。慌てて和宏が、それを抱く。
「はぁ……っ、ほら、ね。もう、気付いた、みたい。だけど、あいつ、和にはまだ直接、
手出しはしない、と、思う。……だか、ら……少しだけ、休ませてくれ、ない、かな……」
言いながら慈斎の上体は、和宏へ倒れ込んだ。すでに意識を失っている。和宏は身体を少し後退し、寄りかかった頭を下ろした。膝枕をする形で横たわらせる。茶の短髪を静かに撫で、今まで見たことがなかった慈斎の寝顔を、口惜しそうに見下ろした。
「俺のせいで慈斎はこんなことになった、のかな。ごめんな?」
熟睡する姿は、これまでに接してきたこの男の言動からはまったく想像がつかないほど無防備だ。それがまた、和宏の焦燥感を掻き立てる。
「慈玄……」
結界内で、今なにが行われているのか。もしかしたら慈玄は、もう中峰に捕らわれ、封印の術をかけられているのではないだろうか。
すぐにでも迎えに行きたい気持ちと、慈斎をもう少し休ませたい気持ちが、和宏の中でせめぎ合う。どうあっても天狗の結界は、たった一人で行ける場所ではない。
座った姿勢のまま和宏は瞳を閉じ、万感の想いでただ祈った。
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