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第四章 宵の明星・38
◇◆◇
「和?」
薄闇の中で、和宏は目を開いた。いつの間にか照明も消されており、枕元に置かれたベッドランプだけが、オレンジ色に灯っている。障子に隔てられた窓の外も、いまだ暗そうだ。
慈斎の頭を膝に乗せているうちに、和宏は舟を漕いでいた。それに気付き慈斎は、そっと彼から離れ、座った状態の少年を寝かせた。灯りを消して自分も隣に身を横たえたが、もはや眠りに落ちることはなかった。
和宏がまだ重い瞼を擦りつつ、時計を引き寄せると、午前三時。日の出にはだいぶ間がある。
「起きられる?ちょっと、ね。嫌な気を感じた」
「え」
不穏な言葉に、寝起きのよくない和宏の頭も一気に冴えた。
「だいじょうぶ、なの、慈玄」
「さぁ、俺にも分からない。とにかく、行ってみる?和を連れてきた、なんて言うと慈玄には文句言われそうだけど」
そう言う慈斎の笑みは、かなり弱々しい。
「っていうか慈斎も。大丈夫?」
心配そうに和宏が顔を覗き込んだ。
「正直、あまり大丈夫じゃないね。けど、俺の事はいいから。動けないわけじゃないし。それに」
金を帯びた瞳が、強く光る。ここだけは何があっても気迫を失わせまいと誓う如く。
「迎えに行きたい、でしょ?和は」
気圧された様子で和宏が頷く。
「うん、それなら良い。そう、だね。箸のお礼、とでも思ってくれればいいよ」
慈斎は和宏を抱き、立ち上がった。痛苦からか幾分顔が歪む。
「慈斎!」
「……平気。じゃ、行くよ!」
障子と窓を開け放つ。山間部の夜風は、初夏となった今時分でも冷たい。立ち塞がった雑木をすり抜けて、彼等は上空に浮かび上がった。
「慈斎……無理、しなくていいよ。俺なら、全然歩けるし」
和宏の耳に届く慈斎の呼吸音は荒い。不安げに見上げても、羽ばたく天狗は前を見据えたまま。
「は、馬鹿言わないでよ。ここで和を離すわけにいかないでしょ?それに、歩きじゃ山寺まで行くのに丸一日かかるよ」
苦しそうな息の中、慈斎は吐き出すように言う。
「そんな悠長に構えてる場合じゃないんだ」
真っ暗闇の眼下は、何がどこにあるかさえ見極められない。どこまで行っても、怪物の腕みたいに絡み合った樹木の枝が広がるばかりだ。しかし、妖の目にははっきり映るのだろう。慈斎が少し、体勢を変えた。
「降りるよ。しっかり掴まって!」
和宏を抱え込むようにして、急降下する。枝や葉がぶつかり、ガサガサと派手な音をた
てた。慈斎の顔や腕に掠って、皮膚や衣服が裂ける。
頭を抱えて腕の中に蹲っていた和宏に、それらは当たらなかった。やがて境内の砂利の上に、転がるようにして着地する。以前のようにふわりと足は付かず、バランスを崩して背から落ちた。
「慈斎……?慈斎?!」
上になった和宏には、かすり傷ひとつ付いていない。が、腕を回したまま頽れた慈斎は、満身創痍で精根尽き果てたように気を失っていた。
「目を開けてよ。俺のために……ごめん、な?」
赤い筋で汚れた慈斎の頬を、和宏が撫でる。呼吸音は聞こえるものの、閉じた両目は開きそうにない。
「和宏君」
寺の回り縁に、黒い人影が立つ。目を凝らして輪郭がようやく掴める程度だが、和宏には聞き覚えのある声で、それが誰だかがすぐに分かった。
「慈海さん!慈斎が!!」
縁から身軽に飛び降りた慈海が、二人の傍まで駆け寄る。
「君等は、なにしに来た」
慈海の声には、切迫した響きがある。和宏がびくりと肩を震わせた。
「っ、え、慈斎が、慈玄が危ないかも、って。それで、どうしても迎えに来たくて」
目の前に倒れた慈斎と、しゃがみ込んだ慈海を見比べ、泣きそうな声で言う。
「そう、か。少し、待っていなさい」
慈斎の肩を担ぎ、慈海は建物の中へと歩く。和宏がそれに続いた。板の間に意識のない身体を横たわらせると、胸の辺りに掌を置く慈海。
「妖力を大分抜かれている。この姿を保っていられるのも、長くはあるまい」
「え。慈斎、消えちゃう、んですか?」
漆黒の髭から覗く口元は、なにも答えない。否定するのも定かではないからだ。
「……和宏君」
しばらく押し黙っていたが、不意に慈海が呼びかけた。
「慈玄を迎えに来た、と言ったな?」
和宏は応えて、顎を引く。
「慈玄は結界の先にいる。が、すでにあやつも身動きが取れない」
「!」
無情な宣告に、和宏には聞こえた。慈斎へ落としていた目線を、怖々と慈海に向ける。
「慈玄は……もう、戻って来られない、んですか?」
「いや、そうではない」
慈斎の件と違い、慈海はあっさり即答した。
「いくら中峰様とはいえ、慈玄のような力ある者をそう易々と封じられぬからな。ある程度の時は必要だ。だが今、その準備には入っている」
どちらにしても見込みがないのでは。聞いた和宏は慈海に問う。ところが、慈海はきっぱりと首を横に振る。
「そうとも言い切れん。君がここまで馳せ参じた、となれば。無闇に殺生をすれば、仏の意に反する。それが無抵抗な人間ならば尚更、な」
「和にはすぐに手出しはしない」という、慈斎の言葉が和宏の脳裡に甦る。
仏の守護者である中峰は、どうあがいても人間に「直接手を下す」ことはできないのだ。だから怨霊をけしかけるなどという回りくどい手段を取った。
「だが正直に言えば、詳細までどうなるかは私にも見当が付かない。君に何が、どこまでできるのかも分からん。危険は依然としてあるのだが。それでも、君は慈玄を迎えに行きたいかね?」
一度和宏はぐっと唇を噛む。そして、強い目で慈海に向き合った。
「はい。一緒に……傍にいるって、約束したから」
「そうか、分かった」
諦念の嘆息と共に、慈海は承諾した。そして眼下の慈斎を見る。
「長い付き合いになるが。今まで一度も利他的に動いたことなどない男が、これほどまでになったのだ。少しは、これに免じても良いかもしれんな」
袂から符を取り出すと、なにやら術を唱え、ふっと息を吹きかける。それを小さくくしゃりと丸めると、両手を膨らませて包み込み、風船のように指の隙間から更に息を注いだ。開いた掌に乗った、丸い紙屑のようなものを和宏に差し出す。
「これを呑み込みなさい」
不思議そうに首を傾げた和宏だったが、言われたとおりに口に含む。がさがさした紙の感触は喉が拒むようであったが、無理矢理嚥下した。
「君には、憑坐の素質がある。ならば、これで結界内に侵入できるだろう」
顔を上げた和宏は、思わず目を瞠った。
つい先ほどまで塞がっていたはずの堂内の最奥が、大きく開けている。月明かりか昇り始
めた朝日なのか、白々とした光に照らされたその場にあったのは、天にでも続くのではないかと思われる石段だった。
「慈海さん、これは……」
慈海が先に立ち、石段の方へ進む。和宏もそろりと近づいた。
「君に私の『気』を少しばかり貸した。ただし一時的なもので、持続性は無い。身の危険を感じたらすぐに戻ってきたまえ。でないと、君自身も戻れなくなる」
和宏は神妙に、目で頷く。
「でも、慈海さんは?」
「私は慈斎の気を感じ取ったので、様子を見に来た。こやつとて、それなりに力ある者だ。封印するなら、然るべき措置をとらねばならん」
「っ、だめです、そんなのっ!!」
石段に足をかけようとしたところの踵を返して、黒袴に縋った。
「慈斎も、封じるなんてだめです!俺のために慈斎がそんなことになるなんて!」
慈海は一瞬怯み、また肩を落として溜息を吐いた。
「慈玄に限らず慈斎までも、か。君にも困ったものだな」
「すみません。妖の掟、もわかります。でも、元はといえば俺のわがままなんだし。慈斎のこと、助けられませんか?」
懸命に訴える少年の姿に、慈海も折れざるを得なかった。妖とは闇の者、その存在の有無など取るに足らないのが常だ。それを、この少年は救えという。
「わかった。この通り妖力が消えかけているのでなんとも言えんが、悪いようにはしない」
「ありがとうございます!!よろしくお願いします!」
深々と頭を下げる和宏の肩を、慈海は数度叩いた。
「さぁ、急いで行きなさい。時は限られているのだから」
「慈海さん、本当に、ありがとうございます!」
ぎゅっと慈海の手を握った和宏は、もう一度心配そうに慈斎に目を遣ったあと、石段を駆け上がっていった。
その背を見送りながら、慈海は思う。
主が臣下を慮る、というのは妖の世界では通用しない。こと天狗山では、その主も使い捨ての駒にされかねない闇の者だ。偉そうに神格化されたとしても、定義は変わらない。すべては仏の守護のため。しかし。
和宏の想いこそが、慈悲そのものと言えないだろうか。
因果も罪悪も、許されるものではないが改悟不可能なものでもない。闇の者とはいえども、「生存」は確かにしているのだから。
強き意志を携えた「巫女の気」を持つ少年は、怖じ気づくことなく異界に歩を進めていった。この位置からは、もう影さえも見えなくなっていた。
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