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第四章 宵の明星・39
◇◆◇
石段を登り切ると、開けた空間になっていた。鬱蒼と樹木が生い茂った山中のどこに、こんな場所があるのかと思うほど。
さながら、大寺の本山である。玉砂利が敷かれた境内のぐるりを囲い、講堂、庫裏、宿坊らしき建造物が見て取れる。それぞれ規模は大きくないが、取り囲まれているためか異様な威圧感がある。
和宏が探すまでもなく、慈玄はその中央部にいた。巨体を縄で縛められ、解こうとしているのか身を捩っていた。しかし、遠目から見ても動きは鈍い。ささやかな抵抗を試みては、すぐに肩を上下させた。
「慈玄!」
和宏が駆け寄る。ところが、ガラス戸のような見えない障害に阻まれ、身体が跳ね返った。
「寄るな小僧!!」
金の瞳を輝かせた中峰が、間に立ち塞がる。ビクッと身を震わせた和宏に、その目が向けられた。
「慈海、め。あやつまでも我に歯向かうとは」
和宏の裡の気を読み取ったのだろう。中峰はぎり、と唇を噛む。向き合った和宏は逆に、真っ直ぐにこの場の主を見つめた。
「ここを通して下さい中峰さん。慈玄を、迎えに来たんです」
「なにを馬鹿な。慈玄は自ら乗り込んで来たのだ。貴様と決別するためにな?」
「そ、んなの、嘘です」
睨み付けた中峰に一瞬尻込みした和宏だが、再び顔を上げた。
「慈玄は、朝には戻るって約束してくれました。もし、俺と離れるつもりだというのが本当なら、俺は帰ります。直接話をさせてください」
「ふん、なにを身の程知らずなことを!ここは貴様のような人間の小僧が足を踏み入れて良い場所ではない!」
互いに一歩も退かず向き合ったままの二人だったが、そこに分け入った声に、均衡が崩れた。
「……中峰、和の中にあるのぁ、慈海の気だろう?それを返さなきゃ、慈海は戻って来られねぇ」
喘ぐような慈玄の声。中峰は和宏から視線を外し、そちらを振り返った。
「慈海の手がなきゃ、今のお前さんに俺を封じるのぁ手間だろうが。……和と、話をさせてくれ」
「はっ、手間がかかろうがなんだろうが、貴様の封印など我の力のみで十分だ」
「これでも、か?」
バチッ、と火花を散らし、慈玄の両腕を縛っていた縄が飛び散る。
「慈玄!」
自由になった左手を慈玄は地面に置いたが、発した術は彼の皮膚も焼いた。低い唸り声を上げ、肘を付く。
「その程度、修復は容易い。その前に貴様は自らの身を焼くか?」
「あぁ、それでもいいね。お前さんが欲している俺の力も、万全どころか大半を削がれるだろうが、な?」
中峰は喉を鳴らした。
「っ、話をするだけだ。いいな、小僧」
和宏の侵入を阻んだ見えない壁が消えたようだった。開いた水門を押しきって水が流れ込むように、和宏が慈玄に近づく。
「馬鹿!こんな無理してっ!!」
「無理、なんてしてねぇよ。お前こそ、こんなとこまで来やがって」
力無く苦笑した慈玄の頬に、ぽたりと水滴が落ちた。
「お前だけじゃない。慈斎も、慈海さんも……みんな、無茶してっ。一緒にいるって、約束したろ?だから、迎えに来たんだよ」
ぽろぽろと涙を零して、和宏が巨体に縋る。零れた涙が、ぽぅっと暖色の光を放った。まるで螢の群れよろしく、慈玄の身体を包む。
「?! そんな……馬鹿な!」
振り返った中峰が驚愕に目を見開いたのも無理はない。
光の群れは、慈玄を捕らえた縄に染み込むと、そこから侵食し溶け始めた。煤状に砕け散り、粒子となって宙に舞う。
見る間に、慈玄は解き放たれていった。
「慈海、貴様か!ことごとく邪魔立てしおって!!」
下方にいるであろう配下に、中峰は恨み言をぶつける。
「いや、そうじゃねぇ、よ」
和宏に肩を支えられ、慈玄が立ち上がった。
「こりゃぁ、和の気だ。慈海の気質が呼応して、お前さんの術を破った」
「巫女の気、か?たわけたことを!覚醒の気配すら感じられぬ、微弱な気ではないか!」
「あぁ。だがな中峰。こいつの持つ気は、ちっとばかし特殊、なんだ」
そう、中峰にとっては昨晩まで「取るに足らぬ」と軽視した気質。ところが状況によって、予想外の効力を発揮する……言いかけたものの、慈玄はそこで喋る意欲が途絶えた。じわじわと妖力を抜き取られ、歩みを進めるだけで精一杯なのだ。代わりに、和宏が口を開く。
「中峰さん。中峰さんは、俺に時間をくれる、って言いましたよね?その『時間』だけでも、俺は、今はどうしても慈玄と一緒にいたいです。だから連れて帰ります」
涙は止まっていたが、和宏を包む光は鱗粉のように少年に付着し、ほんのりと輪郭を浮かび上がらせた。
「身の程知らずはわかっています。けど、俺は約束を守りたいから」
「貴様はなにかというとそれだな。守れぬ約束などする意味がないと思うが?」
忌々しげな中峰の視線が、和宏を刺す。だが和宏の方も、弾き返さんばかりの強い目で。
「守ってみせます。そうしたら、中峰さんも認めてくれますか?」
「守れたら、な?」
劣勢に立たされたように見えた天狗山の頭領だったが、この時のみは不敵な笑みを浮かべた。
「何度も言う。我は親切で忠告しておるのだ。貴様、必ず後悔するぞ?」
「後悔なんかしません、絶対」
ぼそりとした反論が中峰に返された。見れば、声の主の小さな身体は大きな慈玄の肩を支えている。
「歩ける?慈玄」
「あぁ」
中峰の横をすり抜け、彼等は石段に向かう。すれ違いざまに和宏が一礼した。
「何事もなく帰れるとでも思うのか?」
降下の足を踏み出した寸時、和宏の頬が裂けた。
「和!!」
伝う細い赤い糸を目にして、慈玄が叫ぶ。いつもならば考えるより先に傷つけた相手めがけて身体が動くだろうが、今の彼にそんな力は残っていない。歯噛みして睨め付けた先の襲撃者は、ニヤリと笑っていた。和宏も戦慄しておもむろに振り向く。
「慈海等が、人間の小僧に我はそうそう手出ししないとでも言ったか?甘いな。ここは我の庭だ。貴様を八つ裂きにするなど訳もない。慈玄の弱っている今ならば、暴走されてこちらの身が危うくなるようなこともないだろうしな?」
ゆっくりと中峰が近寄る。浮かべた笑みは、凍り付くほどに美しい。やがて和宏の正面に立った山の主は、そのぞっとするような微笑で見上げた。
「しかし、貴様の言うとおり未だ昨日の今日だ。約束約束とやかましい貴様に、妖はろくに約束も守れぬ、などと思われては心外だからな。我も、下衆な鬼ではない」
慈玄を担いだ形で、自らの頬の傷を拭うことさえ和宏はできずにいたが、滴った血液を、顔を近付けた中峰が舐め取った。ゾクッと背中に怖気が走る。構わず中峰は、そのまま血で赤味の増した唇を和宏の耳に寄せ、囁いた。
「あと一日待ってやろう。命が惜しくば慈玄を置いて迦葉から早々に立ち去れ。命を捨てる覚悟ならそれもよい。せめてもの情け、慈玄と共に封印窟へ葬ってくれよう」
言い残して、中峰は踵を返した。さっさと堂に向かうと、室内の闇の奥へと消える。
悪寒に絡め取られた和宏は、一歩も動けなくなった。膝がガクガクと震えている。一連の光景を慈玄も見ていたが、何をすることも何を口にすることもできなかった。二人して、その場に少しの間固まっていたが、慈玄がようやく発した声で、和宏も自我を取り戻した。
「一旦戻ろう、和。さっきの放出のせいか、慈海の気が薄れている。人間のお前だけの気では、結界にはじき出されちまうかもしれねぇからな」
「っ、う、うん……」
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