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第四章 宵の明星・40
よろけながらも、二人は石段を降りきった。巨体は山寺の板間にどうと倒れる。
「戻ったか」
堂内に座して、慈海が待っていた。寝転がった慈玄をしゃがみ込んで心配そうに見遣った和宏の肩に手を置く。
「少々変化しているようだな」
少年より先に、慈玄が言い添える。
「あぁ、どうも、和の気とちっと融合したらしい。中峰の術を破りやがった」
「ほぅ?」
表情の違いが見分けにくい髭面であるが、そこに心底意外そうな色が浮かぶ。
「しかし、返してもらわんことには私も結界内に入れん。和宏君」
「は、はい!ありがとうございまし……っ」
向き直って礼を述べた和宏の口を、突然慈海の口が塞いだ。人工呼吸の反対の要領で、ふっと和宏の吐息を吸い込む。
「ん……え……っ」
一瞬の出来事に、横になっていた慈玄も跳ね上がって半身を起こしかけたが、痛みのためかままならず、大きな音を立てて再び背で床を叩いた。
「あー、そっかあぁ!そういやその術はそーやって気を呑み込み返すんだったかあぁー……」
「そうだが?何かおかしなところでもあったか?」
真っ赤な顔で縮こまる和宏。怪訝な目で二人を順に見る慈海。人命救助同様、必要な手順とわかってはいても目の前で唇を重ねられて悶える慈玄。奇妙な体ではあったが、張り詰めた空気がかすかにほぐれた。
「はぁ、まぁいいや。慈斎と違って慈海にゃ下心の欠片もねぇし」
「下心とはなんだ。貴様はまた、下世話な接吻だとでも思ったのか」
とはいえ、緊張感の緩みは長くは続かない。
照れ臭そうにもじもじと身をくねらせていた和宏が、慈斎の名を耳にしてはっと顔を上げる。そしてとっさに周囲へ視線を巡らせた。
「……慈斎?そういえば、慈斎は」
今の慈玄と同じように身を横たえていたはずの慈斎の姿は、だがまったく見当たらなかった。
「慈斎、か。あやつは案の定姿を保つのが困難になってな」
言いにくそうに、慈海が口ごもる。続きの内容は、和宏にも見当がついた。
「やっぱり、消えちゃった、んですか?」
元々白い顔が、殊更蒼白になった。
「案じずとも良い。君の願いは、私も了承したのだしな」
慈海の手が、和宏の髪をふわりと撫でた。
「この迦葉には、霊脈の集う拠点が幾つかある。その一つに隠匿させた。無論、山の全容を中峰様は把握しているし、予断を許さぬ状況であるのには変わりないのだが」
和宏によけいな心労を感じさせまいとしてか、事務的に慈海は告げる。それでも彼の口から伝えられる現状は、和宏の胸をずきずきと痛めさせた。
「一応私が、不可視の結界を張った。先刻は君に気を貸していたから仮設的にだが、もう一度改めて張ろうと思う。今は中峰様も慈玄と君に気を回しておられるから、慈斎のことまですぐに措置をしようとはお考えにならんだろう」
「それで、戻れる、んですか?慈斎は」
「本人の気力と意欲次第、というところだな。君にまた会いたい、と言っていた」
「慈斎」
和宏の頬に、ぽろりと涙が伝った。消滅したのではない、と分かっても堪えきれなかった。
「今は、あやつを信じて待ってやってくれ」
そう言い和宏の涙を指で拭おうとした慈海は、触れた頬に走った一筋の傷跡に気付いた。
「……! これは、中峰様が」
「あぁ、あいつ、自ら和に手出しするのも辞さないと宣言しやがった」
仰向けに寝転んだまま黙って天井を見つめていた慈玄が、口を開いた。彼にとっても、今は慈斎のことは構うべきところではない。もっと緊迫した危機が、間近にあったのだから。
「そう、か。拙いことになったな」
「余裕こきやがって。明日まで待ってやる、とさ。俺を置いて和が去るか、和もろとも俺を封印するかどっちか選べと抜かしやがる。慈斎ほどじゃねぇが、俺もこんな有様だ。どうしたもんかね」
慈海も顎髭に手を当て、ふむ、と思慮を巡らせる。
「ともかく、私は結界内に戻ろう。和宏君に気を渡したことは知られているのだから、私とてどのような処罰を与えられるかしれないが」
それを聞きとがめた和宏が、はっしと慈海の袂を握る。
「まさか、慈海さんまで負わなくていい傷を!」
「なに、心配は要らん」
和宏の拳に、手が重なった。
「執務を扱う私を封じれば、中峰様といえども掌握できぬ事項も出てくる。面倒は好まぬお方だからな、自らの手数が増えるような事はそうそうなさらぬはずだ」
手下の教育や修行の手筈など、すべて慈海が行っている。慈斎も慈玄もこの場にいない今、自分も身動きがとれなくなれば、まだまだ有象無象の見習い共はとたんに統率が困難になり、この地は乱れるだろうと彼は付け加えた。
「ま、確かに慈海は和に気を貸しただけで、あとは何もしてねぇわけだしな」
ゆるゆると慈玄が体を起こした。
「慈海、悪いがもう一つ頼まれてくれ。俺等は一旦、碧の宿に行こうと思う。が、今の俺じゃ、和を抱いて飛べない。登山道までで構わねぇから、こいつを運んでやっちゃくれねぇか?」
「あぁ、了解した」
「慈玄……慈玄は、大丈夫なの?なんなら、もう少しここで休んだ方が」
慈海から離れ、慈玄の横に膝を着いた和宏が不安げに寄り添う。
「いや、ここでは慈玄も落ち着けぬだろう。先ほどから注意はしておるが、追ってくる気配は無いとはいえ、中峰様の伽藍はこのすぐ上だからな」
「あ……」
慈海の視線の動きを、和宏も倣った。天狗の気を失った和宏には、元通り堂の奥に木壁が塞がり、石段はもう見えない。裏に回っても、いつかと同じく雑木が茂っているのを目にするだけなのだろう。
「慈玄、慈海さん。俺、今物凄く情けない」
ぎゅっと拳を握り、和宏は俯いた。
「一緒にいたいだなんて、わがままだけ言って。一人じゃ、何もできない」
「ばーか、なに言ってんだよ。お前が迎えに来なきゃ、俺ぁあのまま封印されてたんだぜ?」
「左様。おそらく慈斎も、君の懸命さに打たれて力を振り絞った。あやつが元の姿に戻れるか否かも、君の想いの強さにかかっている」
「はー、慈斎のことを、和がんな気に掛けなきゃなんねぇのは不本意だがな」
慈玄は苦笑交じりだったが、悪態を吐きながらも和宏を決死の覚悟で運んだ慈斎には感謝しているようだった。
「まずは宿で休みなさい。なにか分かったら私の方からも報告する。慈斎のこともあるだろうが、和宏君、今は慈玄と共にいてやってくれぬか?」
「は、はい!」
「ん。では、参るぞ」
慈海が和宏を抱き上げ、現した羽根を広げた。
「後からすぐ行くから」
「うん、待ってる」
慈玄を堂内に残し、砂利敷きの境内に立った慈海は、和宏を腕に一足先に地を離れた。
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