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第四章 宵の明星・42

◇◆◇  浴場を出た和宏は、部屋に戻り浴衣に袖を通した。思えば、昨晩からずっと学校の制服を着たきりだ。顕著な汚れこそなかったが、シャツには皺が目立つ。 「そういえば、今日は無断欠席になっちゃったな」  アルバイト先から直接ここまで来たので、コインロッカーに入れっぱなしの鞄も昨日学校に持っていったままの状態だ。ポケットからスマートフォンを取りだし、兄の光一郎にメッセージを送った。学校へ休みの連絡を入れるより、「慈玄の事で用事ができた」とだけ言えば、あの兄は適当に取り繕ってくれるだろう。  だがこうすることでさえ、今の和宏には口惜しかった。光一郎が同校に教師として在籍しているからこそできる融通である。他の生徒ならば取れる手段ではない。とはいえ、欠席の理由をどう説明すべきなのかにも頭が回らない。仮病を使うにも、逆に周囲に要らぬ懸念を懐かせる。 「方法、考えなきゃなのに。なにも思い浮かばないや」  一人にはなるな、と言われはしたが、閉じこもっていても気が滅入る。せめて庭に出ようと、部屋のドアを開いた。 「あら」  戸口に立っていた和装姿と鉢合わせて、和宏は面食らった。 「女将、さん」  碧の方には、驚いた様子は見えない。聞けば、浴場から部屋に向かう和宏の姿を見掛けたので、食事をどうするか訊ねに来たのだという。 「慈玄は、まだお風呂?」 「だと、思います。先に出てきちゃったから」 「そう。それじゃ、後にした方がいいかしらね。お昼近くだと、賄いみたいなものになっちゃうけど」 「すみません」  和宏にしても、まだ悠々と食事を摂れる気分にはなれない。時間が掴めないようなら外に行きますと言い添えた。 「わかったわ。それから」 「?」 「さっきまで着てたの、制服でしょ?学校の。シャツくらい洗濯してあげるから出しなさいな」  言葉に甘えて碧にシャツを手渡すと、和宏はその足で「せのを荘」の庭園に出た。植え込みの葉には朝露が残り、清浄な空気が満ちているように感じる。ガラスで仕切られた通路には、人の気配が増え始めた。平日でも、宿泊客はもちろんいる。まだ早朝の時間帯だが、朝風呂を楽しむ者も少なくない。 「慈玄、もう出たかな」  口に出してはみたが、あとしばらく見付けてほしくない気も彼はした。浴場で見た、無数の傷跡を思い出す。目を閉じ頽れた慈斎の姿も。自分が離れれば、彼等は更にひどい仕打ちを中峰から受けるのだろうか。それとも、穏便に封印術が行われるのか。 「いちにち、って。答えなんて出ないよ」  沓脱石の上で、膝を抱えてしゃがみ込む。そんな和宏に、築山の奥から声がかかった。 「ここにおったか、和宏君」  白の羽織に、黒袴。胴着を装着する前の剣道着にも似ている。そう考えると慈海の風貌は、朝稽古後の武道の師範のように見えた。 「慈海さん!結界内に戻ったんじゃ」 「うむ、戻りはしたのだが」  慈海は口ごもり、思案顔で髭を撫でた。緊迫した様相ではないが、刻まれた眉間の皺を殊更深くしている。 「罰とか、受けなかったんですか?」 「見てのとおりな。それどころか、中峰様は私も寄せ付けようとはせん。堂に籠もったきりでな」  慈海までも深い傷を負わなかったことに和宏は率直に安堵したが、まったく何ともないのも少々気味が悪い。 「なにやら考え込んでおられるようでな。あの方にはあの方なりに、何か思うところでも出てきたのかもしれん」  慈海の口振りはあくまで神妙だが、和宏には中峰の変貌ぶりは想像できない。今朝の出来事……頬を流れた和宏の血を舐め取り、冷酷に見上げた金色の瞳……紛れもなく人ではない、妖の威力を見せつけた中峰。 「俺、中峰さんにかなり嫌われちゃいましたよね。いまだに名前も覚えてくれないし」  貴様の名などどうでもよい、中峰は最初にそう告げて以降、和宏の名を口にしていない。存在自体眼中にないと宣言されたようで、和宏にしてみれば相当のショックを受けたのだが。 「覚えていないわけではないだろうが、呼ぶ気がないのであろうな」  淡々と言いのける慈海の返答に、和宏はますます落ち込んだ。 「そういうところが、あの方の稚気なのだ。すまない」 「え、あの、慈海さんが謝ることじゃ」 「主人の非礼は、下僕が代わって謝罪すべきだからな」  至って堅い表情の慈海に、和宏は恐縮した。 「そっ、そんな。だけど」  中峰に対する態度が、慈玄や慈斎と比べ慈海は明らかに違う。同じ主従のはずだが、他の二人はどこか軽んじた言動なのに対し、慈海には明確な忠心が見える。 「下僕、って。慈海さんは慈海さん、ですよね?」  沸き起こった疑問を、和宏はそんな言葉で慈海に伝えた。 「慈玄や慈海さんたちにとって、中峰さんはその、主人っていうか上の人、かもしれないけど、何もかも命令通りにしなきゃ、ってことじゃないですよね?慈玄も慈斎も、言ってはいるけどなんかこう、ひれ伏してる、って感じじゃなかったし」  やや不思議そうに首を傾げていた慈海だが、和宏がそこまで言ってようやく合点がいっ たようだった。和宏の隣に腰掛け、ゆるりと口を開く。 「無論、我等は僕ではあるが臣下ではない。妖の世界に人間界のような秩序は存在しないからな。国主とその家臣のような関係とは言えん。というより、それよりよほど分かりやすい繋がり、とも言える」  今度は和宏が首を捻る番だった。どういうことかと、説明の続きを待つ。 「なに、もっと単純だということだ。我等は中峰様に『生かされた』。すなわち最初から、我等の命運は中峰様が握っておられるのだ」  和宏には、ますます意味が分からない。難題の数式に試行錯誤するような表情の和宏に、慈海は補足を加えた。 「我等はな、皆すでに一度死しているに同じものなのだ。それを中峰様に拾われ、『天狗』として生きる道を与えられた。態度がどうであれ、根本的には従わざるを得ない」  傅こうがそうでなかろうが、物理的に中峰が彼等の「命の手綱」を引いている。生かした命を逆に潰すのも、本来は中峰の意向ひとつで決まるのだと慈海は言った。 「そ、んな」  和宏は絶句する。そうであるならば、中峰の言う慈玄の「封印」は指示や命令ではなく、絶対の決定事項ということになる。 「だがな和宏君。なにも中峰様は、酔狂で我等の命を弄んでいるのではない。あの方自身も、仏に『仕える身』なのだ。その矜持もあれば、侵しがたい信念もある。罪悪を放っておいては示しがつかぬし、理性などというものが人間ほど根付いていない妖を統率するには、非情な判断を下すことも必要。それに、な?」  慈海の目に、若干ではあるが慈愛の色が浮かんだのを、和宏は見た。それでかすかではあるが理解する。彼が中峰に頭を垂れて従属するのは、彼自身の意志に基づくのだと。 「それに?」 「数々の思惑はあっただろうが、中峰様が我等を『生かした』のは、単に『救うため』であったのかもしれんと、私は思う。君の言い分が中峰様に届く要素があるとすればそこだ、和宏君」  こく、と和宏は唾を呑んだ。慈海の言葉が具体的に何を意味しているのかははっきりと読み取れないものの、淡い光明が射したような。しかし、考えを広げようとすればすぐに暗礁に乗り上げた。慈玄達がいわば、中峰の「所有」である事実に変わりはないのだから。  和宏たちのいる「せのを荘」の庭園は、建物に三方を囲われている。沓脱石はロビーと客室を繋ぐ渡り廊下の途中にあり、エントランス側を迂回すると、駐車スペースに抜ける形だ。その通り道に面した建物の影で、慈玄は二人の様子を見ていた。  慈海がことの外早くここにやって来たのは予想外だったが、和宏が懊悩を打ち明けるには最適のタイミングだったようにも思う。自分にはできない進言を慈海ならできることは、慈玄も心得ている。なぜなら慈海は。 「よぉ和、ここにいたのか。部屋にいねぇから探しちまったよ。慈海も来てたのか!」  今正に気付いた振りで、顔を出した。会話をしていようが慈海が慈玄の気に気付かぬはずはない。当然承知していたが、彼も素知らぬ態度で。 「やっとのお出ましか。中峰様は堂から出てくる気配がない。貴様等を呼び立てるとすればおそらく深夜になるだろうから、それまで存分に休養しておくことだ」  それだけだ、と言わんばかりに慈海は立ち上がった。 「別の従者を寄越すおつもりかもしれんが、動きがあったら再び私も参ろう」 「わかった。……あー、腹減ったな和!碧に言って、なんか用意してもらうか?」  和宏も顔を上げて立ち、今朝の碧の言を慈玄に伝えた。 「そっか。んじゃ、駅前の方にでも行ってみっか。そーゆうわけで、慈海」 「うむ」  和宏に見えぬよう双方目配せすると、慈海は駐車場の方へ抜けようと背を見せた。 「慈海さん」  お願いします、も、ありがとう、も、何度口にしたか知れない。そして何度言っても言い足りないように、和宏には思える。ならばどう言おうかと躊躇する間に、穏やかな目線だけを向けて、慈海は立ち去っていった。  慈玄に促され確かに空腹を覚えた自分に、和宏は苦笑する。これを満たせば見えかけた道が開けると、根拠はなくとも信じて。

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