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第四章 宵の明星・43

◇◆◇  土産物屋や飲食店が並ぶ駅前。その中にあるこぢんまりとしたうどん屋で、慈玄と和宏はうどんを啜っていた。観光客相手というより、以前からここに店を構えていたという体の外観だった。店内も広くはない。そんな地味な見た目とは裏腹に、運ばれてきたうどんはなかなかの美味である。手打ちらしく、太めで腰が強い麺は、濃口の出汁とよく絡んだ。 「なに?」  旨そうに平らげていく和宏を、慈玄はじっと見つめていた。なんだかんだ言いながらも和宏は昨晩流し込んだ茶漬けしか、この時間まで口にしていなかったのだ。目の前に食べ物が置かれ匂いを漂わせれば、腹の虫が騒ぐのも当然。 「いや。なんか日常的だなぁ、と思ってな」 「当たり前だろ?これが普通なんだから」  つゆまで飲んで、和宏は「ぷは」と息を吐く。 「あー美味かった!ご馳走様!」  完食しいつも通りの笑顔で箸を置いた和宏に、慈玄は安堵した。昨晩から今朝にかけて、「日常ではない」慌ただしい経過があったのだから。 「慈海と、何話してたんだ?」  内容は聞こえていたが、改めて訊く。  慈海が言うほど、中峰は甘くはないと慈玄は思っている。確かに、妖とはいえ中峰は今や山と仏の守護者だ。むやみに殺戮をするような悪鬼ではない。しかしなればこそ、慈玄のような「悪鬼だったもの」を決して赦しはしない。守護者は、間違っても「仏」そのものではないのだ。 「何、って。うーん……慈玄が、中峰さんにすごく迷惑かけてる、って話?」  和宏の要約に、慈玄は苦笑せざるを得ない。が、あながち的外れでもない。 「ま、まぁそういうこった。だから言ったろ?お前にゃ、なんの責任もねぇんだよ」 「そうはいかないよ」  和宏は卓に置かれた箸に目線を落とす。面持ちをいささか暗くして。 「俺がよけいなこと言わなければ、慈斎もあんな怪我負うことなかった。慈玄はそうじゃない、って言うけど、元はといえば俺がここに来たいって言ったのが始まりみたいなもんだし」  旅行になど来なくても、慈玄が帰山しない限り中峰は和宏に目を付けたはずだ。そう反論したかったが、あえて彼は口を噤む。 「……なぁ、和」  慈玄も箸を置き、真っ直ぐ和宏に顔を向けた。 「最悪、お前は俺を置いて帰れ。なんなら慈海に送らせっから」  弾けるように、和宏は顔を上げた。 「な……んで?そう、なるんだよ」 「なんで、って。中峰の狙いは、あくまで俺の帰還だ。俺さえ手元に残りゃ、あいつはお前には手を出さない。慈海も、本音を言やそうするのが一番手っ取り早いって言わなかったか?」  慈玄の封印は、要望ではなく決定事項だ。慈海は言った。決定していることを覆すのは容易ではない。ましてや、「人の常識」が通用しない相手に。 「和、相手は人間じゃねぇんだ。俺はお前と過ごせて、本当に楽しかった。悔いはねぇよ。それよかお前が傷つく方が……」 「馬鹿言うなよ」  慈玄の言葉を、和宏が小声で遮る。聴き取れなかった慈玄が聞き返そうとすると、バンッ、とテーブルを両手で叩いた。丼に残ったつゆが跳ね上がる。 「ヒッ!」 「冗談じゃないよ!!俺が慈玄置いて帰ったら、俺を無理して運んで消えた慈斎の想いも、慕ってる主人に逆らってまで俺にアドバイスくれた慈海さんの想いも無駄になるじゃん!」 「……ちょ、和。ここ、店ん中……」  おろおろ見回す慈玄に構わず、和宏は続けた。 「それに慈玄だって、一緒にいるって俺と約束したよな?!俺、お前がいないんじゃ寂しいよ……」  声を落としたと思えば今度は目を潤ませはじめた和宏に、慈玄は思わず諸手を挙げた。 「傷ついたらとか。覚悟なんて、とっくにしてる」 「あーあー、わかったわかった」  涙を浮かべて俯いた赤茶の頭に、ぽんぽんと大きな手を置く。 「悪かったよ、お前の好きにすりゃあいい。けどな、話が通用しねぇ、と思ったらすぐ逃げろ。いくら覚悟してるからって、命を粗末にしろとはあの二人も言わねぇだろ?」 「しないよ。慈斎にも、また会わなきゃ。……わかった」  従順に頷くと、和宏は照れたように笑った。 「俺のわがままに、皆が付き合ってくれたことはちゃんと受け止めてるし、感謝してる。お前だって、ひどい傷負ってさ。だから、よけいに思ったんだ。こうなったら、俺は俺が言ったこと最後まで貫き通そうって。何しても迷惑かけちゃうなら、最後まで一緒にいるって約束、守ろうって」  迷いも畏れも、今の和宏の目にはない。涙が覆った瞳は、むしろ洗い流されたようにすっきりと澄んでいた。 「つっても。なんか打つ手あるかなぁ。今の俺じゃ、お前一人護り切ることもままならねぇかもしんねーんだぜ?」  慈玄の懸念は、そこにある。いかんせん、体力が万全ではないのだ。  口にこそしないが、鞍吉の時同様力を解き放てればその方が良いとさえ思う。少なくともそうなれば、中峰が和宏に構う余裕はなくなるだろう。  先刻和宏にああは言ったものの、自らの身を投げ出すことは、慈玄の選択肢からは消されていない。中峰を良く知る……それこそ一度は捕縛され、生かす殺すの決定をも握られた慈玄だからこそ、次の対面がどれほど切迫した危機であるか理解している。悪に加担した者は、たとえ人間であろうと主にとっては共に悪と見做す。命こそ奪わなくとも、廃人同然に人格を壊してしまうことだって訳は無い。 「うん、俺もいまだに何も思い浮かばないけど」  絶望的な言葉を、絶望感の欠片もなく和宏は言った。少し前に放ったことと、文言は似たり寄ったりでも心持ちが変わっていた。 「俺は、俺のやり方でやるしかないかなって」  うどん屋を出ると、和宏は真っ直ぐ土産物屋のひとつに向かった。先に迦葉を訪れた際にも立ち寄った、店先に饅頭を蒸すせいろを置いたところだ。入って早々店員を呼ぶと、饅頭を買い求める。箱に詰まったものと、バラを数個。 「ほんとはさ、自分で作った何かを渡す方がいいんだろうけど」 「って。お前、まさか」 「俺だって、このくらいで許してもらえるなんて思ってないよ。けど、なにも無いよりいいかと思って。あんまり渡せる気もしないけどな」  交通事故の示談にでも行くような調子で言う。  人間の常識なんて通用しない。そんな相手に、和宏はどこまでも「人の情」で訴えようとしている。これには慈玄も内心呆れたような感心したような感情を覚えたが、ふと今朝の和宏と慈海の会話が、思考に重なった。 『救うため』。  己の場合は、被害を食い止めるため、これ以上犠牲を増やさぬために討伐されたのだと思う。だが、慈海と慈斎は違う。自らの境遇に絶望し、嫌悪し、完全な闇となって落ちぶれる寸前、彼等は中峰に拾われた。少なくとも怨念に身を穢すことはなく、今となっては「守護者」の一員だ。ともすれば、自分も。罪を赦免されることはなくとも、持て余す強大な力は清浄に使われる。  たとえばそれを、「身体ごと封印、浄化」という方法をとらなくてもできるとすれば。  だからといって、今の和宏に可能とは思えない。巫女の気は中峰の言うとおり、「覚醒の気配のない微弱なもの」だ。しかし。 「なぁ、慈玄。慈斎は、消えてても俺のことわかるかな」  不意に和宏が訊ねた。慈玄にすれば和宏が慈斎を案じるのはやはり癪な話だが、この状況では致し方ない。おそらく、慈斎にとっても迦葉に身を置いて以来の深手と言える。和宏のために負ったものならば、少しくらいは報いてやってもいいだろうと考えた。 「あぁ、姿を保っていられなくとも気は現存してるからな。お前がいるかいねぇかくれぇはわかる、と思う」 「そっか」  返事をして、和宏はきょろきょろと辺りを見回した。そして、路傍の道祖神に目を留める。近づくと、バラで買った饅頭を取りだし、前に供えた。 「慈斎、今どこにいるか俺にはわかんないけど、一緒に見守っててな」  しゃがんで言いながら、目を閉じ合掌する。  そう、気質の未熟さなど関係ない。和宏が発揮してきたのは、「情」の力だ。何かを強く願うたび、決意するたび、彼の持つ光は強まった。怨霊を蹴散らし、中峰の術を解き。とすれば、その「情」が再び奇跡を呼ばないとは限らない。  真剣に祈って丸める背を、慈玄は眺めた。見えないものにすら正面から向き合おうとする、和宏の想いに一縷の望みを託すように。 「好きにしろ、って言っちまったしな」  ひとりごちた慈玄の声が聞こえたのか否か、和宏は立ち上がり振り向いた。 「一旦旅館に戻ろ?慈海さんの言うとおり、しっかり休まなきゃ。昨日の夜、あんまり寝られてないし」

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