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第四章 宵の明星・44
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仮眠のつもりでも、一度眠りに落ちてしまえば時間の感覚は無になる。昨日の朝登校し、放課後はアルバイト、そのままこの騒動の渦中に飛び込んでしまった和宏は言わずもがな。気は相当張っていたから眠気など感じてはいられなかったが、腹が膨れて心も定まった今なら別だ。
その安らかな寝顔を見つめながら、慈玄は息を吐く。
自分と知り合ったことで、この少年にはかなりの無理をさせている。本来ならば勉学に励み、部活動やアルバイトをこなし、来る進学の備えでもするべきなのに。類い稀な潜在能力こそ持ち合わせてはいるが、「人間の日常生活」にはなんの影響もないものなのだ。気付かずに過ごせば、それで済んだものを。
申し訳なく思う気持ちと、これも運命かという気持ちが慈玄の裡でせめぎ合う。和宏の持つ「光」に賭ける……自分の行く末も、身の所在も。
「いろんなもん背負わせちまったな、和」
ふわりと跳ねた髪を撫でた。それだけで温もりが伝わる。慈玄が和宏に懐いているのは、間違いのない愛しさ。千年以上生きながらえている彼にも、ここまで明確な感情は初めての。
約束を貫くと、和宏は言った。今回のことばかりではない、どんな困難があろうが……病、老い、死……人間の持つ宿命すら超越し、まるで未来永劫貫徹する如き力強さで。
── 中峰の妨害くれぇどうってこたぁねぇ、か。
状況はそれほど甘くはない。が、なんの論拠もなくても和宏ならやってのける。過日の晩、星空の下川原で感じたこと、山頂で誓い合ったこと。同じ思いを、慈玄は感じていた。
赤茶色の隙間に覗いた白い額に口付けを落として、起こさぬよう隣に横になる。傷つき疲弊していた身体は正直だ。数分も経たず睡魔が襲った。
白い灯りで目覚める。うっかり翌朝まで眠ってしまったのかと慈玄は思ったが、目を射したのは蛍光灯だった。見ると、自分とまだ熟睡している和宏に布団がかけられている。
「あまりにもよく寝てるみたいだったから、起こすの気が引けちゃって」
喉が渇いたため備え付けの電話で茶を所望すると、碧が顔を見せた。
「帰る気配じゃなさそうだったから。もう一悶着くらいどうせあるんでしょ?」
「お前さん、すっかり気の効く女房だな」
「当然よ。でも、私ここ案外気に入ってるの。これからも安寧に暮らすなら、お山のいざこざはさっさと解決してもらわなきゃ」
「そうかよ、面目ねぇな」
やれやれという風に慈玄が肩を竦めると、碧は艶のある笑顔を浮かべた。
「彼を起こして、何か食べる?」
「いや、もう少し休ませよう。夜食の用意だけ頼む」
「かしこまりました。そうそう、これ渡しておいてね」
ぴしりとアイロンのかかった和宏のシャツを、碧が差し出した。
慈海の式が届いたのは、結局午前0時を回った頃だった。
それから一時間ほど前に、和宏は起床していた。寝起きの悪さは相変わらずだったが、寸時ぼんやりしたかと思うと、両掌で自分の頬をぱん、と叩いた。綺麗になったシャツを着、再び制服姿になる。
「じゃぁ、行ってみっか」
先に出口に向かった慈玄の服を、和宏がそろそろと引いた。
「慈玄、なんなら慈玄はここにいてよ。俺、必ず戻るし。もう怪我するのは……」
「なに言ってやがる。覚悟してんのは俺だって同じだ。護るって言ったろ?ま、何をどうできるかは自信ねぇけどな」
振り返り笑いかけた慈玄に過ぎった不穏の色を、和宏は見逃さなかった。部屋を出る直前、駆け寄って抱きつく。
「ありがと。一緒にいてくれるだけで十分だから」
「おぅ」
軽いキスを交わし、裏口から二人は外へ出た。
川の流れる音が静かに響く。それに導かれるように、登山道を往く。滝の轟音が近づいた。月光を映す水面と、対面した雑木の間に溶けるように、漆黒の影が立つ。
「慈海さん」
黒い髪と髭に囲われた、金を帯びた瞳のみが光った。
「中峰は?」
「まだだ。この時に至るまで、中峰様は私を避けておられる。貴様は先にゆけと一言申されただけでな」
和宏がごくりと喉を鳴らした。抱えてきた箱を抱き締める。
「それで和宏君、君はどうするつもりなのだね?何か策を講じたのか?」
「いえ、何も」
慈海に問われるのはいたたまれないのか、和宏は恥ずかしそうに俯く。
「ただ、今まで通り慈玄と一緒にいたい、だから一緒に帰りたいって伝えるつもりです。慈玄がなんでここに帰らなきゃいけないのか、どうしてもそうしないと駄目なのか訊いた上で。でも、離れたくないから……話、しようと思います」
「昨晩そうしようと試みて、聞き入れられなかったのではないか?」
慈海の視線は、極めて峻厳だ。冷静に指摘されたことで、かえって和宏は怖れず顔を上げる。
「わかってます。だけど身体が傷つこうと、ほんとに守りたいものを守れない方が、多分もっと深い傷になるから」
痕の残る自分の頬に触れ、和宏は明瞭に言い放つ。
「いいかね和宏君、今の状態で、君の命の保証は無い。中峰様が実際手を下すことはありえんが、怨霊を操るならばどうとでもなる。仮に殺しはしなくても、君の意識や人格が崩壊する畏れもある。それでもか?」
「はい。でも、そうはなりません。何とかなる、とは言えないけど……中峰さんが俺に問うてきたことだから、ちゃんと答えます」
釘を刺しているが、慈海に呆れた様子は無い。和宏の言葉に真摯に頷くと、肩に手を添えた。
「承知した。君の思ったようにしてみなさい。中峰様が聞く耳を持たず力業に出ようとしたら、私も援護する」
「慈海さん、ありがとうございます」
潤んだ和宏の眼に、月明かりが反射する。それがゆらり翳ったかに見えた。空気の層が歪む気配。
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