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第四章 宵の明星・48

◇◆◇  四方を岩に囲まれ暗黒に支配された空間に、白茶けた札と御幣のみが浮かび上がって見える。どこからともなく伝う水滴は、閉塞しているが故に否が応でも落下音が響く。  山の主は、封印窟にいた。白く玲瓏な面のみが、その場を照らすようにかすかな光を放つ。迷わず奥に進むと、常人では決してみつける事ができないであろう気孔に目を遣る。その上には、真新しい札が貼られていた。……慈斎の施した術の。 「貴様も憐れよな。化け物とも知らず、あんな男に惚れるとは」  感情の籠もらない声で言うと、中峰はその真下に饅頭を供えた。先刻、和宏が彼に渡したものである。 「人の情念は愚かなものだ。我等妖などとは比べものにならぬほどの理知を持ちながら、恋に狂うとまるで機能しなくなる。挙げ句の果てが、このざまだ」  どんよりと澱んだ空気が、不意に密度を増す。外に風はないはずだが、貼られた札がカサカサと音を立て始めた。 「悔しいか?そうであろう。だがいい加減諦めてはどうだ。貴様が『目覚める』ことは無い。貴様はもはや『名を持たぬ者』。いかに闇を増幅させようと、無差別に飛散するだけで意味を為さぬ。どうあろうと、もう二度と慈玄は貴様のものにはならぬのだからな」  札のざわめきがやおら大きくなる。中でも、中峰が凝視している真っ白な新品の札は動きが著しい。生きているように、激しく顫動している。 「貴様の望みどおり、慈玄もここに封印してくれる。しかしそれが何になる?あれはもう、『貴様の名を呼ぶことはない』」  風の渦巻く音が、悲鳴に似る。札の下の岩がぼこりと隆起したかと思うと、突如崩れ落ちて、白い腕が現れた。細く長く、そして禍々しい腕は、置かれた饅頭を掴み取るとグシャリと握り潰す。原型を留めぬ饅頭を投げ捨てると、今度は中峰の首へと伸ばした。 「……下衆が」  驚きも怯えもせず、蛇よろしくうねった手首を中峰が押さえる。そのままぐにゃりと捻り、呪いを唱えて岩壁に押し込んだ。恐ろしい叫び声が洞窟内に反響する。 「貴様のような悪霊が、我に太刀打ちできるとでも思ったか。少しばかり闇を喰らったからといい気になるな!それに、食べ物を粗末にするとは度し難い。たとえ憎い相手の匂いがこびりついていようともな?」  耳障りな悲鳴が尾を引く。素早く印を切った中峰は、懐から符を取り出した。それが瞬間光を帯び、鋭い楔に姿を変えた。 「良いか、犠牲となったのは哀れでも、嫉妬に身を焦がし斯様な醜い怨霊となったのは貴様の罪。自身の業と思い知れ!」  鎚も無いのに、楔は気孔に打ち付けられた。一際甲高い声が空気を切り裂く。  ……ざわめきが止んだ。洞窟の中は、以前の静寂を取り戻す。中峰の眼前には、楔の形から元に戻った白い札があった。 「ふん、慈斎もまだ甘い。こう簡単に破られる程度ではな」  出口に立った中峰は、一度振り返る。そうは言ったものの、己の力でも安易に収まるとは彼も考えていなかった。分厚い岩の奥深くで、ドクドクと息づくような気配。まさしく呼吸をしているような。おそらくは、あの日下界の街へと散った闇と呼応しているのだろう。こんなに離れた山奥からでさえ、力を与え、時が熟すのを待っている。  怨念に汚染された岩壁の下で、見えないはずの口元が嘲笑に引きつったのが、中峰には映った気がした。不快げに眉根を寄せる。  立ち去ろうとする足が、柔らかいものを踏みつけた。怨霊の腕が投げ付けた饅頭だ。見るも無惨に餡が飛び散っている。中峰はますます顔を顰めた。 ── あの小僧。  己の術を遮った、光の粒子を思い出す。  和宏の力は、中峰にとってそれでも脅威ではない。少年の未成熟の気はまだ術とすら言えない。発動は瞬発的で、当人も制御できないものだからだ。  しかしその分、どんな作用を発揮するのかも計り知れない。あるいは、本当に慈玄の潜在能力を凌駕するまでに。 「馬鹿馬鹿しい」  自身の考えを、中峰はそう吐き捨てて否定した。現代に生きる人間の子どもとして、暢気に生きてきた者がたかだか一年で何ができるのかと。  雑務全般をこなす慈海や外部の情報をかき集める慈斎を失うのは中峰としても痛手だが、慈玄を含めた彼等の力さえ流用すれば、山には強大な結界が張れる。 「それまでに、利用できるものは利用せねばな」  封印窟を出、降るような星空を仰ぐと、美少年の姿をした守護者は吸い込まれるように消え去った。

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