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第四章 宵の明星・50
◇◆◇
「せのを荘」女将の碧は、朝方訪れた珍しい客に浮き足立っていた。
「あらあらまあまあ慈海様!!まさかここへお出で下さるなんて!」
慈玄のところですか?ですよねぇ、と一人合点し、慈海がなにも言わないうちに部屋へ案内する。
慈玄とは妖であった前世からの既知であったが、他の迦葉天狗とは転生後に碧は関わりを持った。先に知り合ったのは慈斎だ。下界の情報収集を手がける慈斎が、元妖で真砂の友人であり、しかもこの地に居を構える碧と接触を図ったのは必然の流れだった。そして稀とはいえ、中峰と弥勒寺の伝達役として下界に下りる慈海のことも知ったのである。
だが、慈斎はともかく慈海が旅館の内部に立ち入ることはまず無い。そもそもこれまで、慈海が人間と接するのは大抵弥勒寺付近に限られていたのである。
この訪問は、彼女にしてみれば完全に虚を衝かれた格好なのだが。
部屋の扉を叩くと、寝惚け眼の慈玄が顔を覗かせた。
和宏が泣き止み落ち着くのを待ってから二人で休んだので、この日も睡眠時間は精々数時間というところだろう。慈玄の疲労も極限に近いので、今日は慈海も「だらしがない」とは口にしない。
「おー、来たか。碧、悪ぃが慈海の分も朝飯頼む。あと、風呂使わせてくれ」
「はいはい、かしこまりました」
一つ返事で請け負い立ち去った碧の後ろ姿を訝しげに見送ってから、慈玄は慈海を招き入れた。和宏はまだ眠っている。
「精神的にかなり衰弱していたようだが。大丈夫なのか、この子は」
「あぁ、多分もう心配ねぇ。つっても、もともと結構抱え込んじまう性質もあるからな。そいつをなかなか自覚できねぇ分厄介だ。お前さんのことは和もお気に入りだから、ちっと様子を見てやってくれ」
「さて、私にそういった役目が勤まるのかわからんが」
言いながらも、慈海の口元にはかすかな苦笑が浮かぶ。
「頼んだぜ?俺ぁやっぱり父親代わりには到底なれねぇからな」
ひそひそと短い会話を交わした後、慈玄は寝具で身を丸めている和宏を揺り起こした。
「こんなものしかご用意できずにすみませんね。板前には腕を振るわせましたので、ごゆっくり召し上がって下さいまし」
女将は「こんなもの」と謙遜したが、朝食の割には品数豊富に料理が並んだ。山菜飯、ふきの炊き出し、蒟蒻の甘辛煮、煮豆……と、ここまで見渡して、慈玄があることに気付いた。
「……魚も肉も、卵さえ無い……」
つまり、精進料理に近い形だ。
「碧の奴、慈海に合わせやがった。どうりでなんか態度がおかしいと思ったんだ」
「? 女将さんも、慈海さんを気に入ってるの?」
慈玄と慈海の間に座った和宏が、首を傾げる。
「も、ってなんだよ。あぁ、飛縁魔は聖職者を誑かす色魔だって言ったろ?要するに、堅物好きなんだよ。転生しても好みだけは変わらないらしい。あいつの旦那も、仕事は遣り手のくせに酒も女も一切やらねぇくそ真面目だって話だしな」
「いいことじゃん。それに慈海さんなら俺、わからなくもない」
「はー、グサッと来ることをしれっと言うねお前は」
碧の話は軽く聞き流したが、そのやりとりで和宏が気力を取り戻しているのが慈海にもわかる。
「では、有難くいただこうか」
手を合わせると、慈海と和宏が同時に箸を付けた。
「うぅ、疲労回復のためにもスタミナ源が」
「動物性の食材だけが活力になるわけではないだろう。貴様は下界で良いものを食い過ぎだ」
「だぁってー。ほら、和だって!これじゃあ物足りねぇよなぁ?」
振られた和宏は、黙々と自分の皿を空にしていた。
「ん?美味しいよ?」
「和宏君の方がよほどできているようだぞ、慈玄」
「えええー!」
彼等の軽口に、慈海も加わる。不安がまるきり消滅したわけではないだろうが、こうして話すことが和宏の気持ちを和ませると慈海は徐々に理解してきた。
「あ、慈海さん、ほんと夜は色々すみませんでした」
同じ言葉で繰り返された謝罪も、昨晩とは含意が違う。困らせたことを率直に詫びる口調だ。
「仕事、大丈夫なんですか?中峰さんは傍にいなくていいような口振りだったけど」
「あの方が自ら良いと仰ったのだから良いのだろう。それより口煩く小言を言う従者がいなくてせいせいしているのではないかな」
「へぇ。まさかお前さんがそういう台詞吐くとはねぇ」
からかうように慈玄が相の手を入れた。とはいえ真実、珍しい言い様に聞こえたのだが。慈斎もこの男も、和宏と関わり少しずつ変わったのだろうかと慈玄は思う。自分と同じように、穏やかな感情へと。
「じゃあ、また一緒にご飯食べられるかな!」
「そうだな。君はいつか、私の好物を訊ねたな。ほっとけーきとやらもなかなかの美味であったから、今度は君のこしらえた食事を馳走になろうか」
お、と目を丸くした慈玄をよそに、和宏はぱぁっと輝くような笑みを満面に浮かべた。
「是非!よろこんで!!」
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