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第四章 宵の明星・51

◇◆◇  食事のあと向かった大浴場には、数名だが宿泊客がいた。出立前にここの湯を名残惜しむのだろう。皆思い思いに湯船で足を伸ばす。 「湯治場など、久しぶりだな」 「へぇ?俺はお前さんが温泉場なんか来るとは思わなかったよ」  和宏たちも、彼等に混じる。慈海と和宏ならば親子に見えないこともないが、慈玄が加わっていることで関係性は分かりにくい。だがゆったりと入浴を楽しむ人々が、新たに入ってきた三人組に目を向けることもなかった。 「久しぶり、って、昔は来たことがあるんですか?」  言葉尻を拾い、和宏が疑問を口にする。昼前の陽光を取り込むガラス窓に、眩しそうに目を細め慈海が応える。 「あぁ、もう遙か昔。まだ、この山に来る前の話だが」 「あ、あの、慈海さん、背中流していいですか?」  もじもじと照れ臭そうにしている和宏の申し出を、慈海は快く受け入れた。 「もちろん。かえってそうしてもらえれば有難い」 「よかった。あ、慈玄は自分でやれよ?」 「なんでだよっ!」  二人のやりとりに、慈海はくすりと忍び笑いを洩らした。 「本当に仲が良いな、お前たち」  短期間での慈海の変化に、慈玄はひとつの推測を巡らす。何も知らない和宏が、更に頬を紅潮させて意気込んだ。 「え?お、俺、慈海さんとも仲良くなりたいです!」 「一緒に風呂に入る、というのはまだ仲が良いとは言わないのかね?」 「えっ、そっ、それは……です、よね。仲が良いから入るんですよね。うん」  もしかしたら、と思いつつも憂愁の影を慈玄は一切見せず、普段どおりの茶々を入れる。 「なんだってそこで赤くなるんだよ、和」 「べっ、別に赤くなんて!」 「一応無防備な姿を晒すわけだからな。しかもその背を、親しくない者には向けられんよ」  言いながら、慈海が和宏の前に腰掛けた。精悍で引き締まった背中だが、淡く痣のような傷跡が無数に浮いている。少し緊張した面持ちで、和宏は石鹸を泡立てたタオルをそこに当てた。 「そういえば、さっき『山に来る前』って言ってましたけど。慈海さん、もともとこの山にいたんじゃないんですね」  そろそろと擦りながら、訊ねる。昨日、慈海は自分を含めた天狗たちが中峰に「拾われた」と言った。それがどこで、とはまだ和宏は聞いていない。 「私だけではない、慈玄と慈斎もだな。中峰様がこの地から具現化されたあと、全国行脚の禅師に従い弟子として旅をされていた。その際、我等は各地で集められたのだ」 「ふぅん、中峰さんも寂しくて仲間が欲しかったのかな」  真面目に言ったつもりの和宏だったが、背を流されている慈海と隣に座った慈玄は、顔を見合わせて苦笑した。 「そりゃあねぇよ和。中峰は、この迦葉を天狗山としての基盤にするため、自分の配下に置けそうな奴等をかき集めた、ってことだ。運が良いのか悪いのか、俺等が偶々その網に引っ掛かっちまった」 「そうだな。だが、それだけとも言い切れんぞ、慈玄」  悪行を咎められ退治された慈玄は文字通りそうなのかもしれない。しかし、慈海と慈斎までもが同じような経緯を辿ったとは考えづらい。中峰に対する、彼等の微細な態度の差は、和宏もよくよく目にしている。 「和宏君、昨日の朝私は、中峰様が我等を拾ったのは『救うため』だったかもしれん、と言っただろう?」  少年が黙ってこくりと頷くのを、慈海は正面の鏡越しに確認した。 「慈玄が元は神の凋落した姿だったという話も以前したな?我等は、最初から『天狗』と呼ばれるものだったのではない。中峰様の元に仕えるようになって初めて『天狗』となったのだ。私は、もともと人間だった」 「え……」  思わず、和宏は手を止める。その事実を彼が耳にしたのは、これが初めてだった。慈玄の方は、当然知っている。口を挟まず、身体を洗いながら仲間の昔語りに耳を傾けた。 「家は代々陰陽師……祈祷師でな、私も継いでそれを生業としていた。そして、一人息子がいたのだ。君よりは少し幼いが」 「そ、そうなんだ。慈海さん、父さんみたいで安心すると思ったら、やっぱり」  若干困惑を滲ませながらも、和宏が笑んで返す。しかし鏡を挟んで合わせた相手の目は、それが懐かしくも辛苦と寂寥の思い出であることを明白に表していた。 「母親……私の妻は、赤子を産み落としてすぐに命を落としてな。私は忘れ形見の息子を溺愛した。ところが、政敵同士のいざこざに巻き込まれ、理不尽に殺されてしまった」  完全に和宏は、掛ける言葉を失った。 「息子を人質に取られ、呪殺を依頼された。やむなく仕事を受け成功させたのだが、それが敵方に露見した。依頼をしてきた側も、見て見ぬ振りだ。私は捨て駒でしかなかった。それでも私自身が殺されたのならばまだましであったのだがな」  自分自身の苦しみより他人の苦しみに共鳴しようとする和宏が、こんな話を聞いて心を痛めないはずがない。表情を強ばらせて、おろおろと視線を泳がせる。  横で見ている慈玄は、だが黙ったまま。和宏の気持ちを斟酌しないのではなく。慈海がわざわざ昔の話を蒸し返しているのには、それなりの理由があることを予見していたからだ。 「悲しみに暮れ、怒りに身を滾らせた私は、鬼になりかけた。本来罪人を捕縛する者がなんらかの罪を犯し牢に入れられると、日頃の恨みから他の囚人にひどい折檻を受ける、というだろう?あれと同じだ。憎悪と怨念に取り憑かれた私は、悪鬼の格好の餌食となったのだな。精神を悪霊共に蝕まれるのに、些少の時間もかからなかった。我を忘れ息子の敵を誅殺した。知らぬ存ぜぬで私を切り捨てた雇い主もな」  まるきり動きを止めてしまった和宏に代わり、自ら桶で背を流し落として慈海は立ち上がる。 「復讐を遂げて後も憎悪は矛先を収めず、心を完全に食い尽くされてしまいそうになったところを中峰様に拾っていただいたのだ。そして、私は今ここにいる。……すまない、つまらん話をしたな?」  棒立ちにになった和宏は、ふるふると首を横に振った。 「お前さんがその話自分からすんの、初めて聞いたよ」  自らの身体を洗い終えた慈玄も、慈海と並んで湯船に向かう。チェックアウトの時刻が近づいたのか、先程までちらほらと見えた他の宿泊客の姿は、すでに無い。 「……っ、あ、あのっ!」  行きかけた二人の後ろ姿を、和宏が呼び止める。 「慈海さん、その、俺を見て息子さんのこと思い出したんですか?だとしたら……ごめんなさい、辛い思いをさせて」  振り返った慈海は、和宏に歩み寄った。小さな背を軽く押すと、洗い場の椅子に座らせる。 「辛いものか。和宏君、もし私が封印されるようなことになっても、今度こそ自分の身を挺して『息子』を守れるのだから、悔いは無い。だが残された者がどれほどの悲しみを負うことになるのかも理解している」  おもむろに慈海は、先程とは反対に少年の滑らかな背を流し始めた。和宏の方も、何をされているのかようやく気付く。畏れ多さに断ろうと声を発しかけたが、話の腰を折るのも憚られたのかすぐに諦め、大人しくじっとしていた。 「だから、一年後君が中峰様の申しつけた約束を守りきるために、私も協力を惜しまない。無論、遂げられるか否かは君の意志次第だが、な」  ざぱ、と湯を掛け洗い終えるのと同時に、慈海も話を締めた。  湯に浸かり二人を眺めていた慈玄は、満足そうに微笑む。  これこそが、彼の期待していた効果だった。もともと人間である慈海には、最初から妖としてこの世に現れた自分たちには根底では理解できない、人の「情」が備わっている。ただ慈海は、元来が人間なればこそ、天狗として……守護者として生きるに当たり、己の持つ「情」を殊更厳格に自制し続けてきたのだ。 「慈海、さん。さっき、『息子を守れる』、って」  慈海に促され、共に浴槽まで来た和宏は、ふとその言葉を思い返した。 「うむ、君も先刻『自分を見て息子を思い出したのか』と訊いたな。まさしくその通りだ。もうかなり永いこと忘れていた……いや、思い出さぬようにしていたのだが」  身体を沈めた和宏の髪を、慈海が柔らかく撫でる。 「といっても、失った時の辛く悲しい思い出ではない。生まれ出でて、初めてこの手に抱いた時の喜び、共に過ごした温かい日々のことを。私は、それさえも己の裡から消し去ろうとしていた。有難う和宏君、君のお陰で、彼を思い出してやることができた」  頭を撫でられながら和宏は、くすぐったそうに笑った。 「はい。きっと、見た目も性格も全然違うだろうけど、俺を慈海さんの息子にしてください」 「はは、してください、と言われては君の本当のお父上に申し訳が立たぬが」  並んだ慈玄も、ほっと息を吐いて身体を伸ばした。 「まー、親子なら俺も安心、ってなー」 「父親として、貴様の目付に回るかもしれんぞ?」 「えっ、んなこと言う?!」  白い湯気で霞む浴場に、明るい笑い声がひとしきり響いた。 「中峰さん、わかんないけどほんとはちゃんと色々考えてくれてるのかもしれないね」  両手で湯を掬い、顔を濡らした和宏がしみじみと口にした。 「あいつにはあいつの信念とか、正義があるんだろうさ。それは、俺もわからなくはない。じゃなきゃ、俺だってとっくにあいつをぶっ潰してっからな。けど、あいつはちょっと意固地すぎるんだ。どんな理由であれ、手段を選ばず邪魔者を排除しようって考えは、俺は納得できねぇ。ま、あいつにしても俺には言われたくねぇ、って感じだろうが」 「だが、恩は恩、罪は罪。因果応報は理だ。私にしても貴様にしても、な」  和宏はぶくぶくと顔を沈める。二人の話に新たなる決意を懐いた彼だが、まだ確たる自信は持てずにいる。 「俺もなんか罪背負った方がいいかな。つまみ食いとか」 「では、君の場合の償いは食事一回お預け、というところか」 「えぇ!それ何気にすげぇきつい」  三人は再び、顔を見合わせて笑う。この時ばかりは、先の事態に対する憂慮を忘れて。

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