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第四章 宵の明星・52
◇◆◇
「では、この辺りで。また近いうちにな、和宏君」
そうすることにだいぶ慣れてきたのだろう、慈海はここでも和宏の頭を撫でた。
結界内へ戻る慈海を見送りに、三人は連れ立って登山道の滝まで来た。和宏にとっても、もはや馴染み深い、そして様々なことがあった場所だ。
「はい!食事の約束、忘れませんから!」
快活な笑顔を取り戻した和宏を、慈海はどこか頼もしく思う。少年の裡にはまだ迷いも多いとは分かっていても、いつかまた涙を見せることがあろうとも、必ず乗り越えこの表情を幾度も見せるだろうと。
「あ、あの、慈海。慈斎のこと、よろしく頼む、な」
言いにくそうに、慈玄がぼそりと言った。互いの感情がどうであれ、慈斎が今回の件で力を尽くしたのには違いない。
「了解した。それにしても貴様等、短い間にずいぶん打ち解けたようではないか」
「ですよね!俺もそれが嬉しくて!」
和宏が乗じて、はしゃいだ声を上げる。
「はぁ?!冗談だろ?まぁ、一応和のために妖力削ったのは認めてやってもいいが」
「また慈玄はそういう。俺は、今日みたいに一緒にご飯食べたり風呂入ったり、慈斎ともしたいです!皆一緒の方がもっと楽しいし」
和宏の言葉に、慈玄はますます苦虫を噛みつぶしたような顔になる。
「それに……できれば中峰さん、とも」
これには、慈海も目を丸くした。
「おまっ、あそこまでされてまだ中峰にまで!」
慈玄は窘めたが、慈海の方は声を殺して笑った。
「良いではないか、言うだけなら問題なかろう。それに彼なら、実現させてしまうかもしれん」
「俺はやだよ!食い物がろくに喉を通らなそうだ!」
ぎゃんぎゃんと喚く慈玄を放って、和宏は少しだけ殊勝な面持ちになり、慈海に向き直った。
「とにかく、慈斎が戻ってくれるのが先決ですよね。話ができるようになったら、俺が待ってたって伝えて下さい」
「あぁ、必ず伝えよう」
「和、わかってるたぁ思うが。一人で会いに来ようなんて思うなよ?」
一年待つ、という中峰の約束は、そうはいっても信用に足るものではない。無闇に違えるような真似はしなくても、歪んだ理由付けならいくらでもできる。そもそも、「一年」という期間すら根拠が曖昧なのだ。短縮も延長も、気分次第かもしれない。
「そうだな。まだ危険が払拭されたわけではない。怨霊が浄化を撥ね除け続けているのもまた真実だからな」
慈海も改めて念を押す。
「大丈夫です。慈玄、一緒に来てくれるんだろ?」
「正直、慈斎と会うのぁ気乗りしねぇがな」
憎まれ口を叩いたわりには、慈玄の表情は穏やかな苦笑だった。
「そちらの街のことも、気をつけてな。それでは、しばしの別れだ」
慈海は林の中に紛れ込み、去った。少し離れた場所で、翼の羽ばたく音だけを残し。
木漏れ日を遮るようにして、和宏は手をかざす。風の舞う一瞬を確認して、ゆっくりと腕を下ろした。
「帰ろっか、慈玄」
「ん」
力の抜けた少年の肩を慈玄が抱き、二人は山道を下ってゆく。
「帰ったら、また慈玄大人しくしてないとな。この前より疲れてるんだろ?」
「そうだなぁ。慈斎ほどじゃぁねぇが、人の姿を保ってるだけでいっぱいいっぱい、ってとこだな。しばらく寝て過ごさねぇとか」
こきりと片腕を回す仕草は、どうにも世俗じみている。しかしそんな人間くさいこの天狗を、和宏は好ましいと感じているのだ。
慈玄だけではない。慈海も、慈斎も、あるいは中峰でさえも、考え、悩み、怒り、笑う。見えないわけでも、触れられないわけでもなく、確実に存在している。人間とはかけ離れた存在かもしれない。だが、少なくとも和宏の見る彼等は、人間と同じように生きている。そして彼等の抱える「罪」や「因果」も。
そんなものは、人間にだっていくらでもある。当人が省み、後悔に傷つき、悔い改めようとするならば、妖であろうと「現存の抹消」だけが償いとは、和宏には思えない。
「……早く元気になれよな。じゃないと、俺の遊び相手いなくなる」
「遊び相手、って。お前、俺のことそんな風に見てるわけ?」
不満そうに慈玄が口を尖らせた。
「え、じゃあ、なんなんだよ」
「そうさなぁ、恋人とか?愛しい相手、とか?色々あんだろよ」
慈玄はあくまで戯けた調子だ。「馬鹿言うな恥ずかしい」と、突っぱねられることを覚悟しての。
ところが、和宏は急に黙り込み、足も止めた。
「ど、どした?悪ぃ、今のは」
「……そ、その、抱きついたり、とか、いちゃ、イチャとか、したい……から、早く治って、ください」
もじもじと視線を逸らしながら言う和宏をまじまじと見て、慈玄は寸時固まった。
「和、今ので完璧に俺、回復したかも」
そのまま、がばっと抱きつく。
「わ、わあぁ、よせ!もう明るいのに!!」
口では拒みながらも慈玄の腕に捕らえられた和宏は、両手に包まれた雛鳥のように身を竦ませ息を潜める。そろそろと背中に腕を回して、身ごろの布をぎゅっと握った。
「先のことはわかんないけど、とにかく、まだ慈玄と一緒にいられてよかった」
「まだ、じゃねぇよ。これからもずっと、だ。俺も、そうできるよう考えるから」
肩口で、和宏が頷くのが慈玄に伝わる。
「俺は、お前が幸せになればいいと思ってる。罪の分だけ不幸になるより、それを背負って幸せになる方がずっと難しいもんな」
中峰の考え通りに封印、抹消されれば、確かに罪は消えるだろう。だが同時に罪悪感も、悔恨も消えてしまう。命を落とした人への想いも、懺悔も、供養も。ならば、罪悪と共に彼等が生きた証をも消し去るのではないか。人である和宏は、そう思う。
「幸せに、か。俺の幸せには、お前が必要不可欠なんだがな?」
「だから、傍にいるって言ってんじゃん。お前ん中に、これからもいっぱい、俺の部分作ってやるから。少しくらい欠けても寂しくないくらい、な」
「ばか、欠けちゃ困るんだよ。たとえ、わずかでも」
肩から離した顔を上げさせ、慈玄は和宏に口づける。互いで互いを満たす如く。
課せられた難題ばかりではない。人と妖、障壁は数多。それを思えば、此度のことなどただの始まりに過ぎないのではないか。自分たちはまだ、一歩目を踏み出したばかりなのだと。
住み慣れたはずの桜街に、何が起ころうとしているのかはわからない。だがきっと、これからも皆で笑って過ごそう。和宏は決意を、信念に変える。そして信念を確信へと。
太陽の光に消された星は見えない。しかし、夕闇が迫れば再び巡る。同じ周期で回る惑星は再び、宵の空に一際輝くだろう。
── 皆を、護らなきゃ。
今は目に映らないその星を、和宏は仰いで誓いを立てた。
◇◆◇
迦葉の結界内には、封印窟の他にも岩に閉ざされた洞が幾つかある。地脈、水脈が網目のように走り、それらが交錯することによってエネルギーが集約される。「山の霊力」と呼ばれるものの正体はこれだ。強い波動は璋気の浄化を促し、生物には力を与える。
「へぇ、そういう結末に落ち着いたの」
洞内に、声が響いた。中には人影が一つあったが、その者が発したのではない。岩陰には、とぐろを巻く一匹の蛇。眠るようにじっと身を潜めて。
「不本意か?」
人型の方が訊ねた。白い羽織以外は、漆黒に溶け込んでいる。
「まさか。とはいえ、若干拍子抜けだね、もうすっかり諦めてたし。さすがにこんだけ生きてれば飽きてもくるよ」
「心にもないことを」
黒い人影……慈海は、ふっと口端を上げた。
「貴様がそう簡単に、この世に興味を失うはずがなかろう」
「おや、お見通しで」
蛇がのろのろと、鎌首を上げた。
「これほど早く実体化が叶っただけでも良いではないか」
「さてねぇ、今となっちゃこんな姿だと不便で仕方ない。ちょっと気を抜けばくびり殺されかねないよ」
「案ずるな。元通りになるまでは、私が付き添ってやる。あの子と約束したからな?」
くくっと忍び笑いする気配がしたが、実際は目に見えない。
「ほんと、ずいぶんと手なずけられたもんだねぇ、迦葉随一の頑固者が」
「人のことは言えんだろう。貴様は、私が長年思っていたほどただの与太者ではなかったようだ」
「買い被りすぎですよ、慈海様」
蛇は、一度もたげた頭を再び自身の中央に沈めた。
「ま、封印は免れないと思ってたんでね、たかだか一年くらい延長されたところで、俺はなんとも思わないよ。あの子の好きにさせれば良い」
「そう言うだろうとは思ったがな」
光射す洞穴の口に進みつつ、慈海は後ろ姿で言った。
「おそらく、中峰様が貴様をどうこうすることはもうしばらくありえんだろう。ゆっくり養生するが良い。だが」
わずかに向けた表情には、陰影が深く刻まれる。
「あの街の闇に触れたのは、まだ貴様のみだ。互いに絆されたというのなら、さっさと回復して手を貸してやれ」
黒い影が見えなくなると、まるで洞全体が喋っているかのような独り言だけが残る。
「やれやれ。そいつもお見通し、ってわけです、か」
誰にも気付かれぬように息を殺し、蛇はまた眠りに就く。そんなことは己が一番よく分かっているとひとりごちながら。
「俺にもまだ、使命が残ってた、ってことかな」
地脈が運ぶ温もりを、慈海が来る前よりも彼は心地良く感じ取っていた。
── 宵の明星・完
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