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第五章 蠍ノ心臓(アンタレス)・5

 喧嘩はほぼ負け知らずの鞍吉だが、それを発揮するのは敵意を持った暴力を向けられた時に限る。天性の身軽さと瞬発力に付随する感覚によるもので、自己流であり正当な護身術ではない。  なので、こうして身動きを封じられると脆弱さを露呈する。抵抗を試みても、保健医の長い脚は蛇のように絡みつくばかり。彼の腰を引き寄せた腕の力も、思いのほか強い。 「ぃ、や……だ、やめ……っ!」  押しのけようと、懸命に身を捻る。だがそのせいで股間を割った相手の膝が、熱を帯びた部分を尚更擦った。 「嫌だと言うわりには、簡単に皮膚温度が上がっているじゃないか。先生に開発されたのか、それとも、元々『好きもの』なのか」  湿った嫌らしい音と共に、背筋を震わせる低い声が鞍吉の耳に流れ込む。  グリグリと膝で刺激された下半身が、ジーンズに締め付けられ窮屈そうに膨れあがってきた。 「ほう、敏感だな」  耳をまさぐる舌は休むことがない。左手が腰を支え、空いた右手は裾からシャツの中へ素早く滑り込む。一気に腹を撫で上げると、つんと尖った胸の突起を容赦なく抓み捻った。 「……っい、ぁあっ!!」  鋭い痛みが鞍吉の全身を貫いたが、それと同時に硬さを増した自身がどくんと脈打つ。射精には至らなかったが、耐えているのがもう苦しいほど。 「ココも感じるのか。やはり、お前は好きものらしい」  喉で笑った保健医の指は、飽くことなく鞍吉の胸先を捏ねる。その度ファスナーの下にある肉棒が苦しげにもがいた。男は膝で、それを感じ取りながら。 「抜いて欲しくて堪らんようだな。だが、初対面の俺で良いのか?流されるままに、お前は知りもしない男に身を預けるのか?」 「ち、ちが……っ!」  嫌々をして、鞍吉は首を振る。しかし、そんな否定も虚しく怒張した己が欲しがる。 「違わないさ。お前、自分が相手を好きかどうかもわからんままにセックスしてるんだろう?いわば、相手が誰でもいいわけだ。己の欲情と淋しさを紛らわせてくれるなら誰でも、な」 「ちが……っぅ、あ……っ!」  言い返そうとした鞍吉の唇を、保険医は軽く噛む。呪縛でも吹きかけるように、吐息が口の中へ注がれた。 「だったら、これをどう説明する?触れる手を払えず、身を震わせて熱を上げて、こんなにココを腫れ上がらせて」  胸から離れた右手が、股間を撫でた。なにを言おうが、全部虚偽にしてしまうような身体の反応。荒い呼吸をするように、陰茎は快楽に打ち震える。 「今更なにも拒む必要はないだろう。お前の望み通りにシてやるよ」  ジーンズのボタンを外しファスナーを下げられると、縛めから解き放たれた部分が飛び出す。盛り上がったそれは、薄い下着の布など突き破りそうな勢いで。  あまりの屈辱に、鞍吉は涙の滲んだ瞼をぎゅっと瞑った。  携帯電話のバイブ音が、微かに響いて保健医の手を止めた。続いて、軽快な電子音も。  その出所を認識して、絡め取った長い脚を解き、保険医が床に置かれたバッグを踵で引き寄せる。鞍吉のものだ。  サイドポケットに突っ込まれていた機体を見付けると、拾い上げて着信ボタンを押す。脳天気な口調が、鞍吉耳にも少しだけ届いた。 「あ、もしもし鞍ー?ごめんねぇ、今日部活があって今から学校出るとこなんだけ……」 「お前の大切な鞍吉なら、保健室にいるぞ?」  間延びした光一郎の声は、一瞬で凍り付く。  廊下から聞こえてきたけたたましい足音が保健室に到着し、更に大きな音を立て戸が開くまで、ものの数十秒もかからなかっただろう。 「……なにしてんのさ、夢露」 「なに、って、見てのとおりだ。光一郎先生を迎えに来たっていうから、しばらく軒下を貸してやっただけだが?」  青ざめた光一郎の表情は、鞍吉の知る彼とはまるで別人のように憎悪を滾らせている。自分が先刻までされていたことも忘れ、彼は息を呑んだ。  愚鈍げな光一郎には想像もつかないようなスピードで、夢露という保健医の胸倉を掴み椅子から立ち上がらせる。ひゅっと空気を切り裂いて、拳が上がった。  が、結局、それが振り下ろされることはなかった。  押し除けるように手を離すと、光一郎はもう保健医に一瞥もくれず、鞍吉の傍へ歩み寄った。 「帰ろ?鞍」 「う、うん……」  呆気にとられながら、鞍吉は出入り口から靴を取り、光一郎に従い保健室を出た。  肩に腕を回され抱かれたが、いつものように悪寒を感じる間もなかった。ここにいる、もう一人の人物ももはや視界に入らずに。 「ごめん、嫌なところ見せちゃったね」  二人並んでの帰路の途中、光一郎は気まずそうに呟いた。鞍吉は首を横に振る。 「うぅん?俺の方こそ。ごめん、勝手に入り込んでて」  なぜあんなことになったのか、鞍吉にはまったく理解できなかった。夢露にひどい恥辱を与えられたのは事実だが、それよりも隣にいる男の豹変ぶりが。  この時点では光一郎の好意は、鞍吉にとってまだ曖昧なものだった。 「好きだ」と言ってくれたことが嘘偽りでないと思いはしても、確信には至っていない。  その後海へ旅行して幼少時代の葛藤を知り、手紙の一件から釈七と同居するまでの過程で、徐々に深まりつつあるものだった。 「でも、すぐ飛んできてくれて、ありがと。すげぇかっこよかった」 「え、そぉ?」  でれっと笑う光一郎は、すっかりいつもの調子に戻っている。 「なんだよ、持続しねぇな」  無意識に、鞍吉の顔に苦笑が浮かんだ。 「うーん、俺怒るの苦手なんだよねぇ。みっともないでしょ?ムキになって」 「そーかな、そんなことねーと思うけど。俺はちょっと嬉しかったし」 「鞍に惚れ直してもらえたなら、結果オーライかも知れないけどねー」 「惚れ直すもなにも、俺は」  そこまで言いかけた鞍吉の胸に、夢露の言葉が傷口を広げる爪のようにじくりと刺さる。 ── 自分が相手を好きかどうかも判らないくせに。お前は、相手は誰でも良いんだ……。 「どうかした?」  心配げに光一郎が顔を覗き込む。初対面の男に凌辱されかけたのが尾を引いていると思ったのだろう。 「う、うぅん?大丈夫」 「そ?ならいいんだけど。とにかく、あいつはあぁいう奴なんだよ。可愛い子が好き、っていうか、すぐ質の悪い方法でちょっかいかけるっていうか。和にもよく絡んできてたし」 「和、にも」  保健医の意図など鞍吉には知る由もなかったが、和宏にも同じように手出ししているとするなら、光一郎の言うように自分は単に弄ばれただけなのだろうと判断した。  和宏に対して夢露が好意を懐いているか否かはわからなくても、あの可愛らしい「弟」を差し置いて、自分個人に特別な感情を向けることなどありえないと、この時の鞍吉は信じ切っていたからだ。 「そういうわけだから、鞍も気をつけてね。っていっても、あいつに会う機会なんてそうそうない、か」  のんびりした光一郎の口振りに、鞍吉も同意する。  退勤時に桜校前を通り過ぎることはあっても、二度とあの男の誘いには乗るまい。からかわれただけなのなら、近寄らなければ、思い出すこともない。  なにより、いくら自分からすれば頼もしい一面を見たとしても、光一郎自身が「嫌だ」と思っている心情に駆らせてしまったのは忍びない。怒りに打ち震える彼は、やはりどうあっても彼らしくはないのだし。  キルトと遭遇したことも含めて、この日のことを鞍吉は心の奥底に閉じ込め蓋をした。再び彼の姿を目にするまで、完全に忘却していたのだ。  だが、病原体が少しずつ身体を蝕むように、押し込んだ感情は潜在下でじわじわと鞍吉の情緒に傷を付けた。本人ですら、それに微塵も気付かなかったが。  この日はただ、己の肌に触れた保健医の感触を思い返して、鞍吉は身震いするだけだった。恐ろしく、冷たい指先の。心地良い温度では無論なければ、普段彼に悪寒を走らせる生ぬるさでもない。氷の切っ先でも宛がわれたような、鋭い痛み。屍の如き冷血さは、「人でない」慈玄にさえ感じたことのないものだ。  思わず、横に沿った袖口を掴んで僅かに身を寄せる。 「怒るのは苦手だけど。こんなこと二度とないように俺が鞍を護るから、ね」  袖を握った鞍吉の手を解き、光一郎は代わりにそっと、自分の指を絡めた。 *  その時の一部始終が不意に頭の中を支配し、鞍吉は固まる。  カフェに転職して以後通勤時に学校前を通ることもなくなったので、夢露がやってくる今の今までまるきり忘失していた出来事。それほどまでに苦く、いたたまれなかった日のことを。  ほんの一時であったのだろうが。ぽん、と凝り固まった背を叩かれると、それだけで大袈裟に飛び上がった。 「大丈夫か?疲れたなら、休憩入れようか」  後ろに立っていたのは釈七だ。ほっと安堵の息を吐く。 「……う、うん。そう、します。すみません」 「気にすんな。ここは俺がやっとくから」  温かい手が、鞍吉の髪を撫でた。  愛情の感じられる温度を頭上に受け取りながら、ちらりとハッチからフロアの様子を鞍吉は伺い見る。そこから一番遠い窓際の席に座った男が、こちらに視線を送ることはなかった。  軽い苛立ちを隠して、彼はロッカールームへと足を向けた。

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