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第五章 蠍ノ心臓(アンタレス)・4
◆◇◆
それは、四月の上旬。
まだ鞍吉が、「sweet smack」でアルバイトを始める前のことである。
桜校前は、彼の通勤路だった。
今もそうだが、前アルバイトの勤務時間もまちまちで、退勤が下校時刻と重なる日も稀にあった。
和宏が宮城家を出、一人先に帰宅するのがまだ心許なかった鞍吉は、早番の時は買い物などで時間を潰した。この日も、そうするつもりでいた。
ただ何気なく、以前の出来事を思い出したのだ。偶然学校の門前で、光一郎と再会した時のことを。もしかしたら、帰宅の途に向かう彼と再び鉢合わせるかも知れないと。
いつぞやと同じように、運動部の生徒がランニングをしていた。その様子を目にし、己の軽率な行動に鞍吉は溜息を吐く。
── なにやってんだか、俺。
約束していたならともかく、こんなところでいつ出てくるかもわからない光一郎を待つなど。
部外者がやたらと学校を覗き込んでいたら、それこそ不審者とも見られかねない。諦めて背を向け、立ち去ろうとした。その時。
「ここになにか用か?」
背後から声を掛けられ、鞍吉は振り返った。
門柱の影に立っていたのは、白衣を羽織った男。金色の髪も手伝って、少々日本人離れした風貌の。
白衣から判断するに、理科系の教師か、保健医か。光一郎も染髪していたので、今更髪色には驚かない。職員の採用基準がずいぶん寛容だなと思いはしても。
無視するのもなんなので、少し考えた末に彼は声の主に尋ねた。
「あ、あの……えぇ、っと、宮城光一郎先生、はいます、か?」
すると男は、僅かに片眉をつり上げた。頭から爪先まで、鞍吉をじっと観察し。
「ということは、お前がもしや、鞍吉……か?」
名指しされて、眼を瞠る。
「なるほど。他校の生徒、という感じでもなさそうだったが。そうか、お前が」
一人得心している相手に、彼は戸惑う。
「……あ、あの……」
「あぁ、いや。光一郎先生なら、今頃美術部にいるだろう。部活動終了までまだ間があるから、もうしばらくかかると思うが?」
光一郎が美術部の顧問だとは、鞍吉もまだ知らなかった。意外に思いながらも
「そ、ですか。だったら、結構です。すみませんでした」
頭を下げ、そのまま帰ろうと足を踏み出す。初対面の男がなぜ自分を知っているのか若干気にはなったが、それは夜にでも光一郎に訊けばよい。
「まぁ待て。迎えに来たのではないのか?保健室でよければ、中にいればいい」
男が気さくに言う。ますます訝しげな目で、鞍吉は彼を見た。
保健室、というからにはやはりこの男は学校保健医なのだろう。
だとしても、そんな提案に乗るわけにはいかない。文化祭ややむを得ない事情でもない限り、生徒や教師の家族でもない赤の他人が無闇に校内へ立ち入って良いはずがない。
しどろもどろにそう言って断ると、保健医はやんわりと、しかしどこか強硬的な調子も孕んで重ねる。
「保健室は俺の治外法権みたいなものだ、気にすることはない。そこから出なければ問題にもならんだろうさ。それに、気になるんじゃないのか?先生のこと」
挑発するような笑みに、鞍吉は喉を詰まらせる。
彼が光一郎と買い物に出た折、光一郎のかつての仕事仲間に出逢ったのはこの数日前。
キルトというその外国人青年が放った言葉は、鞍吉の胸の奥底に鋭い棘として深く刺さったままになっていた。
── 和の元に戻りたいって、光が言うから。
和宏の傍にいたいがために、光一郎は教員資格を土産に帰国したのではないか。
鞍吉の裡には漠然と、その疑念がすでにあった。
彼等兄弟は揃って、ここに在校している。学校にいる間は鞍吉は完全な部外者で、二人の様子を窺い知ることはできない。そんなのは当然だし、深入りする必要はないと感じていた鞍吉だが、保健医の言葉が胸に残る棘に毒を含ませた。
光一郎の同僚であるこの男ならば、兄弟の関係になにか感じ入るところがあるかもしれない。
呪縛のように、好奇心がじわじわと鞍吉に染み渡る。
「じ、じゃ、ぁ……お言葉に甘えて」
ふっと微笑んだ保健医が、頷いて鞍吉の背に手を回した。
びくりと跳ね上がり、その手から逃れようと身を離しつつ、鞍吉は周囲を見回してから誘導に従って敷地内へと入り込んだ。
校舎の一階にある保健室には、いわゆる昇降口とは別に、校庭に開けた独自の出入り口がある。朝礼時の貧血や体育の授業での怪我など、校庭でのアクシデントの際効率的に生徒を運び込むためだ。
人気の少ない通路を回り、そこから鞍吉は室内に招き入れられた。
学生の頃の彼は、保健室になど近寄りもしなかった。というか単に、縁がなかったからなのだが。
当人は気付いていないが、元妖の鞍吉は回復力が高い。臍の緒がついたまま冬場の公衆トイレに捨て置かれていたものの、辛うじて生きながらえていたのはそれが要因だ。以後幼少期から病気らしい病気には罹ったことがないし、怪我も一般の子どもに比べれば治癒が早い。
加えて他人と接するのを避け続けてきた彼は、診察室で医師と向き合って自分の体調を説明するのも苦手だった。故に、医療施設にはほとんど世話になったことがない。学校の保健室もまた然り、というわけだ。
中に入ったのはせいぜい健康診断の時くらいだが、鞍吉にしてみればそれも億劫な行事でしかなかったので、順番が済めばそそくさと立ち去っていた。
だから比較の術もなかったが、こと桜校の保健室は存外に広い。一貫校だから無論各部ごとに設置されているのだろうが、いざというときは学年を問わず使用すると思われた。
仕切カーテンの向こうには、真っ白い清潔そうなシーツにくるまれたパイプベッドが三台。そのスペースを除いても、職員用デスクにテーブルと数脚の椅子、薬品棚が置かれてまだ余りある。
「どうぞ。遠慮なく座れ」
しかし相手が指し示したのは、デスクの前の丸椅子だった。
「は、はぁ……」
どうせならテーブルの方で良いだろうにと思えども、鞍吉に拒否権はない。言われたとおりに腰掛けると、図らずも問診のような格好になる。
「俺がなぜ、お前の名を知っていたのか気に掛かるか?なんのことは無い、光一郎先生が自ら口にしているのを聞いただけだ」
デスクに片肘を突いて、保健医が笑いかける。
「先生はいつも学校からお前に電話しているだろう?あれを小耳に挟んだ。どうやら、お前に夢中のようだな」
── あのバカ。
内心で鞍吉は独りごちる。
確かに光一郎は、やれ声が聞きたくなっただとかどうしているか気になったとか、様々な理由をつけては彼に連絡を入れた。勤務先から電話するのは恥ずかしいからやめろと言うには言っていたのだが、まさか人がいる場所からかけていたとは。
「聞き覚えのない名だったから、訊ねてみた。宮城……弟の和宏の方にも、な」
それですべてが腑に落ちる。和宏ならば、「先生」に訊かれれば同居していた自分のことは抵抗なく話すだろう。仮にも和宏自身が「兄として」家に呼び込んだ人間だ。
そういえば、目の前の保健医は鞍吉に名を名乗ろうとはしない。
学校職員であるこの男と今後親しい関係になることはありえなさそうだし、そもそも彼は人の名を覚えるのも、呼ぶのも不得手だったので何の支障もなかったが。
「そう、ですか」
謎は解けたものの、鞍吉は急速に居心地が悪くなってきていた。
現段階で和宏がどう伝えたかはわからないが、もしかしたら自分が家を出て、宮城家には今光一郎と鞍吉の二人だけだというところまで伝えたかもしれない。
電話の内容を耳にしたのなら、己等がいわば「特殊な関係」にあるというのも、この男には推測できている可能性がある。
「なかなか可愛らしい顔をしているな。先生は弟から、まんまとお前に乗り換えた、ということか」
「……え?」
どきりと、鞍吉の心臓が跳ねた。予想どおり、相手に光一郎との関係を読み取られたこと。そしてそれ以上に、「和宏から乗り換えた」と言われたことに。
「以前はあれだけ、弟の尻を追いかけ回していたのにな」
痛いほどの鼓動が鞍吉の胸を打つ。キルトの声が、まざまざと彼の脳裏に甦った。
「あ、あの。光……光一郎、は、その……」
「お前だって気付いただろう?あの兄弟が……というより、光一郎がいかに弟に依存していたか。それをお前は、どうやって心変わりさせたんだろうな?」
キャスター付きのデスクチェアが、ぐっと彼に近づいた。膝が触れあうどころか、交互に挟まれ絡み合った。
「例えばカラダ、とか」
鞍吉の耳元で、吐息と共に囁かれる。逃れようと思った時は、もう遅い。
頬から首に滑り落ちた長い指。臑で押さえ込まれた両脚も動かず。
「先生を捕らえて放さないとは、相当イイようだな」
耳朶に舌が忍び込む。
「……っ、ひ……」
振り払おうにも、身体を震わせた鞍吉は腕の力が入らなくなっていた。
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