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第五章 蠍ノ心臓(アンタレス)・7
◆◇◆
休憩を終え、ロッカールームを出た鞍吉の耳に届いたのは、気の抜けたような己への呼びかけだった。
「あ!鞍だ!!くーらーー」
ドアベルのカラン、という音と共に店内に入ってきたその声を、今更彼は聞き違えようもない。
「光」
「えへー、ちょっと仕事済ませてたから遅くなっちゃったけど、やっと来られたよー。よかった、鞍の可愛い姿が見られて」
自分が宮城家を出てからも変わらない気楽な調子にほっとしつつ、露出の高い衣装に包まれた全身をくまなく眺める光一郎を、鞍吉は小声で牽制する。
「あ……っ、あんま見んなよ。恥ずかしい」
「えぇ、なんでさー。これを楽しみに頑張って片付けたのにー」
窘められても、光一郎は懲りずににやけた顔を鞍吉に向けた。いかにも光一郎らしい口振りが、今の鞍吉には安らぎを感じさせる。
「ま、まぁ、いいや。け、ケーキは一個にしとけよ?」
「うんっ!やったー」
スキップでもしそうなほど軽快な足取りで客席フロアへ向かった光一郎だったが、ガラス張りのテラスを見渡せる地点まで来て、様子が一変した。
「げ、夢露。あいつ、なんでここに」
それが聞こえたらしく、窓際の保健医はちら、と彼等を見て微笑を投げた。特に声をかけるでもなく、そのまま目を逸らす。
「あぁ、夢露か。あいつオーナーの知り合いなんだ」
いきなり背後から説明されて、元同居組は揃ってぎょっと振り向いた。鞍吉に代わって厨房にいた釈七が、会話を聞きつけてハッチから顔を出していた。
「夜とかはたまに来るんだが、大体控え室の方に行くんだけどな。今日に限って、なんで客席にいるんだか」
控え室とは、上の階にある執務部屋のことだ。出勤していても美李は階下にはおらず、ほとんどその部屋に滞在している。面接などが行える応接セットの他、衣装のストックはすべてそこにあり、ご丁寧に試着室まで完備されていた。
小さく溜息を吐くと、釈七は鞍吉の頭をぽんと撫でた。
「鞍、光一郎を案内してやれ。少し話してきていいから」
「え、でも俺、休憩上がったばっかで」
「こっちは回せてるから大丈夫だ。テーブルが空いたらついでにバックしてこい。これも仕事だ」
ダスターとトレイを鞍吉に持たせて、厨房に戻る。嬉しそうな光一郎は、散歩をせがむ大型犬がばさばさと尾を振っている様子を思わせた。
気遣いを有難く受け、鞍吉はフロアへ進む。幸い、保健医とは距離を保てた場所に空席があった。
「あれ、慈玄もいたんだ」
比較的入り口寄りの席に座っていた慈玄に、横を通ろうとして光一郎が気付く。
「よぉ、光一郎」
声を掛けた相手と鞍吉の顔とを順に見て、慈玄はどこか安心したような笑みを微かに浮かべた。
「仲良くやってるみてぇじゃねぇか」
応える光一郎は苦笑気味だったが。
「うん、まぁね。慈玄こそどうしたのさ、可愛い和がいるっていうのに難しい顔しちゃって」
「あぁ。ちょっと、な」
お茶を濁すような慈玄に、光一郎は怪訝そうに首を傾げる。
「なにかあったの?」といった体で鞍吉にも目で訊ねたが、彼も黙って肩をすくめるのみだった。
あちこちの席を回って接客をしていた和宏が、「兄」たちがいたのを確認してこちらに寄ってきた。
「兄貴まで来たのか」
「和、俺、お客様」
「お客」を強調した光一郎に、和宏の頬が引きつった。
「はいはい、いらっしゃいませ。鞍、じゃあこの『お客様』よろしく頼むな?」
「う、うん」
宮城兄弟のやりとりは久々に目にしてもなんら変化もなかったが、かえってそれが鞍吉の胸を静かに波立たせた。和宏の言葉を合図に、光一郎を空席へ導く。
和宏はといえば、慈玄に向き直ると、じとっと疑惑の目で睨む。
「慈玄お前、また恭さんにちょっかいかけてただろ?」
「ちょっかい?ちょっかいってなんだよ!俺ぁ『可愛いな』って素直な感想を述べたまでだぞ?!」
「ふぅん?俺はやっぱり女の子の方が好きなのかと思ったけど」
和宏は和宏で、先程慈玄と恭がなにやらこそこそ話していたのを気に掛けていたらしい。彼自身は自認しないだろうが、嫉妬には届かないまでも複雑な心境ではあるのだ。
「っていうか、お前だってじゅうっぶん可愛いってさっきも言ったろ?」
「だから男の俺に可愛いってあんまり言うな!」
「……どうしろってんだ」
不毛な会話に、慈玄が突っ伏す。二人には、これこそ平和な日常ではあるのだが。
そんな他愛も無い日常を、誰にも判らず不穏の翳りが忍び寄る。
つん、と顔を背けて再び給仕に戻ろうとした和宏に、深沈たる低音でお呼びが掛かった。
「宮城、ちょっと」
「なんですか?コーヒーのお代わりなら……」
「それはさっき五月雨に頼んだ。もうすぐ蓮も来るんだろ?手隙になるなら座れよ」
慈玄ががばっと顔を上げる。断り切れないのか、和宏が恐る恐るといった体で夢露の前に腰掛けるところだった。
「あいつっ!」
「はぁ。でも、なんで俺」
「別に。なんとなくお前を傍に置いとくのがこの状況で面白い気がしてな」
遠目に見ても、和宏に笑いかける夢露の表情は端正で色気がある。眼前にしている和宏なら言わずもがな。居心地悪そうではあっても、もじもじと顔を赤らめた。
「やっぱりあいつも和目当てだったのか」
一瞥だけくれて、鞍吉は嘆息した。和宏が誰からも好かれるのは承知していたし、またそれが深い恋慕や愛情に変わるのも、いつ誰が対象になるか判らないと彼は思っている。事実、慈玄だってそうらしいのだから。今では鞍吉にしか想いを傾けていないと豪語した光一郎や、一緒に暮らし始めた釈七とて決して例外ではないのである。
和宏が何らかの「光明」とでも言うべきものを持ち合わせているのは、鞍吉も十分に感受している。元妖でも「気質」などというものは微塵も見えない彼ですら。
明るく、愛らしく、幼子のように護ってやりたいと思わせる反面、相手を包み込むような包容力も持ち合わせている和宏。そんな彼がいかに魅力的かは、鞍吉当人さえも惹かれざるを得なかったことで知れる。圧倒的すぎて、彼には「自らの卑下」というベクトルに働いてしまってはいたが。
しかし今、実際和宏と向かい合っている保健医を目にすると、あの日からかい半分だけで自分はあんなことをされたのだと鞍吉は再認識させられるようだった。彼にとっては忘れたいほどの屈辱であったのにと、悔しさが甦る。
ところが、前にいる光一郎は鞍吉のぼやきを否定する。
「うーん。目当て、っていうか。可愛い子が好きっていうだけに思えるけどねぇ?」
「だったら、恭さんとかでもいいはずだろ?なんで和なんだよ」
「面白いからじゃない?ほら」
光一郎が顎を向ける。その先には慈玄がいた。明らかにギリギリと歯噛みしている様子の。別の意味を込めて、鞍吉はもうひとつの溜息を溢した。
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