163 / 190

第五章 蠍ノ心臓(アンタレス)・8

「宮城お前、近頃何日か学校休んだことがあったよな。光一郎先生は体調不良『らしい』と報告していたようだが、休み明けに登校してきたお前はどうも病み上がりという感じじゃなかった。違うか?」  迦葉で中峰との対決をこなした和宏は、精神的に疲弊はしていたものの体力が落ちていたわけではない。むしろあの数日間不足しがちだった睡眠も若い身体は乗り越え、帰山の翌日には学校へ赴いたのだ。  急な休みの言い訳は兄に託したが、病気だったというのは無理がある。伏していたどころか倒れ込んだ慈玄の面倒を見るために、普段よりも気ぜわしく動いていたくらいだ。 「なにか悩み事でもあって、学校に来るのが億劫になったんじゃないのか?」 「なんで今、その話なんですか。別に、悩みなんて」  否認しながらも、和宏の目はちらちら慈玄を追ってしまう。本当のところは煩雑事ばかりだった。この街に潜む闇のこと、慈玄の覚醒のこと、一年後の約束のこと……。  視線の先に、夢露も気付かないはずがない。 「やはりあれが例の男か。お前のこと、さも心配そうに見ているが。あいつはお前に苦悩ばかり背負いこませているんじゃないのか?」 「そっ、そんなことありませんよ!」  夢露の言い様が慈玄に聞こえるのではないかと思い、和宏は打ち消すように少し声を張った。  先日山で療養途中の慈斎が口にしたとおり、自分が大人しく迦葉に戻ればという選択を慈玄は捨てきっていない。第三者にまで指摘されては、ますます立つ瀬がなくなるだろう。 「いつぞやも言ったはずだ。俺は、お前を気に掛けてるんだよ宮城。学校を休むほどあの男にかまけているとはな。心配で堪らなくなる」  夢露の手が伸び、テーブル越しに和宏の頬を撫でた。乗じるようにして、ずいと顔も近づく。  ガタッ、と椅子が大きな音を鳴らした。大柄な男が立ち上がると、その有様だけでも騒がしい。更に騒々しい足音で、慈玄は窓際の席に歩み寄った。 「どーうーもさっきから呼ばれてるような気がするんですがねぇ。俺の噂でもしてました?」  ピキピキという音でも聞こえそうなくらい青筋を立て、壮絶な笑みを浮かべて彼は夢露を見下ろした。  だが凄まれた夢露は、顔色一つ変えない。慈玄に視線さえ向けず、話す声も平静なまま。 「いや?どうも宮城が悩みを抱えているようだから、話を聞いていただけだが?」 「そいつぁどうも。そんなご心配いただかなくとも、和の悩みなら俺がめいっぱい聞いてますから、配慮は無用ですけど」 「その悩みの原因がどうやらあなたらしいんでね。本人には言いづらいでしょうから」 「大人気ないな、慈玄」  体格に見合って、慈玄の地声は割と大きい。おまけに説教慣れしている僧侶は、こんな言い合いをしている時ですら声が通る。現在は顔見知り以上の関係ではない鞍吉でも、一時は同じ屋根の下に暮らしていたよしみ。身内の恥のようでいたたまれない。彼等の席には顔も向けられない状態だ。 「は、はは。俺も人のことは言えないけど、ね」  かつて保健室に殴り込む寸前だった光一郎は苦く笑う。 「光はいいよ。保健医見てあんときのこと思い出したけどさ。嬉しかったもん、俺」 「そ、そぉ?」  険悪なムードはこの席では無関係とばかりに、二人は暢気な笑顔を交わす。  といっても、光一郎が本当に怒るのが苦手だと言うことは、鞍吉も身を持って知っている。昔の手紙を盗み見ても、言い分も聞かず飛び出して別の者に縋っても、散々彼が「怒れ」と泣き喚いても、決してそれができなかった光一郎だ。あの日激昂したあと、きっと彼は相当自己嫌悪に陥ったに違いない。 「でもあそこに座ったのが鞍だったとしたら、助け出しに行くけどね!じっとしてらんないよ」  一見頼りなさそうなこの男に、初めて出逢ったときから鞍吉は助け出された。しばらくそんなこと忘れていたなと、彼は今になって自省する。ありがと、とぼそりと礼を口にして。 「でも、さ。光は平気なのか?和にあんなことされて」 「んー、平気じゃないけど、心配なだけかな。和ってさ、相手に悪意があってもその理由を探そうとしちゃうでしょ?ただの悪戯も真剣に受け止めちゃうから」  やはり、弟のことは良くわかっている。 「そう、だな」  そこが和宏の良いところであり、危ういところだ。鞍吉とて理解しているからこそ、光一郎の見解にまたざわりと心が騒いだ。 「それはそれは、ご親切に。しかしそんなら尚更、当人同士の問題に他人が口を挟むことじゃないと思いますが?」 「はは、それもそうか。そんなに入れ込むほどの関係ではなかったか」  直球の怒りを、夢露は余裕を持ってさらさら躱す。その態度がよけいに、慈玄を苛立たせた。 「もう、いい加減にしろよ慈玄。先生も」  和宏が宥めても、慈玄の方はどうにも収まりがつかないらしい。 「学校でもそうやって、相談っつう名目であちこち触ったり、あまつさえ妙な痕つけたりすると?いくら保健医の立場でも、俺には触診の限度を超えてるように思えるんですがねぇ」 「ちょっ、慈玄?!」 「えぇ、それも仕事だと思っているのでね。本人が拒否しないのであれば問題ないのかという判断の上だが、なにやら保護者を不快にさせてしまったらしいな、宮城」 「ほご……っ!あのなぁ!!」 「ん?保護者じゃなかったのか」  言い振りからして、夢露は明らかに慈玄と和宏の間柄を見抜いている。それを承知で、「保護者」という単語を出した。彼等の見た目の年齢差を揶揄しているのは明白。あるいは、慈玄が「人間ではない」ことも踏まえた上で。  今となっては和宏の恋人ないし情人、旦那のようなものだと自負している慈玄は、まんまと挑発に乗せられた形だ。短絡的な性格の慈玄より、一枚も二枚も、相手の方が上だった。 「あの……ぉ」  下手をすれば掴み合いになる直前、という場面。柔和な少女の声が、そこに分け入る。 「他のお客さまもいるので。仲良くしましょう。ね?」  ツインテールを揺らした恭が、するりと間に立った。と同時に、和宏も立ち上がる。 「先生には、相談したいときちゃんとしますから。ここにいるなら普通にお客してて下さい」  そそくさと和宏は慈玄の背後に回った。恭にまで取り静められては、慈玄も引き下がらざるを得ない。 「そうか。悪かった宮城、俺の相手だけをしてもらうつもりだったんだが、手を止めさせたな」  余分な邪魔者の思慮までさせたと暗に皮肉っている。それに気付いた慈玄は再度相手を睨め付けた。 「いえ。慈玄、ちょっと」  言い返したいのを堪えて、後ろで服を引く和宏に彼は従うしかなかった。

ともだちにシェアしよう!