165 / 190

第五章 蠍ノ心臓(アンタレス)・10

◇◆◇ 「……ホント、馬鹿なんだから」  フロアをぐるり囲んだ一面のガラス。その一箇所から、表のウッドデッキに出られる。今は雨の季節なので使われることはほとんどないが、気候の良い時期には表にも席が並べられた。  和宏は慈玄をその隅へ連れ出した。大きな体躯は、良くも悪くも目立つ。あんな言い争いは、周囲の客から奇異の目で見られただろう。しばしほとぼりが冷めるまではと外に出た。  肌寒いくらいの薄曇りではあるが、降雨はまだない。剥き出しの自分の肩を抱いて、和宏は目線を落とす。 「お前、ここがどこだかちゃんとわかってるよな?」 「だからなんだよ。お前だって、誘われるままほいほい座りやがって」 「接客、いつもああなんだっての」 「そりゃ聞いたさ。けど学校でだってちょくちょく手出ししてくる相手なんだろ?ちっと無防備すぎんだろよ」  慈玄は憤懣やるかたない。無礼な態度を取られたり、目の前で和宏を弄るのを見せつけられたりしたのにも腹を立てたが、中峰が言うところの「桜街の闇」にあの得体の知れない男が関わっているかもしれないことが、一層彼に憂虞をもたらす。和宏に当たったところで詮無いとわかってはいても、苛立ちは抑えられなかった。 「信用ねぇのな、俺」  悔しげに、和宏は溜息を吐く。 「べっ、別に信用してねぇわけじゃねぇよ。ただ、あいつの口車に乗せられてんじゃねーかって心配で!」 「心配しなくても乗らないよ」 「乗ったから言う通りにしたんじゃねーのかよ!」 「だから、あれがいつもの接客なんだって。いいよ、もう」  こうなると、意地の張り合い。  慈玄としては、夢露に対して持った疑惑も全部含めて和宏にぶちまけたいところだ。だが今の段階では、なんの根拠もない推測に過ぎない。学校で保健医と顔を合わせねばならない和宏には、信じようと信じまいとよけいな不安を与えることになる。それに、仮になんらかの邪念を本当に夢露が持っているとするならば、和宏の応対が変わることで警戒される恐れもある。  慈玄の懊悩を、和宏は知らない。言い返さず諦めて口を噤んだ相手に、やはり自分は信頼されていないのだろうかと肩を落としたのみだ。 「和ー!」  ガラス戸が開いて、幼げな顔が飛び出した。脱色でもしているのか、薄茶色の髪がぴょこんと跳ねている。 「蓮、来てたんだ」 「うん、さっきね。なんか、釈七も鞍も別の仕事しに行っちゃったみたいだからさぁ、和ちょっと厨房入ってくんない?」 「……あ。う、うん、わかった」  折しも、細い銀糸のような小雨が落ち始めていた。慈玄には眼を向けず、蓮に続いて和宏は先に中へ戻る。 「俺まだ仕事あるし。先に帰っててよ、慈玄」  言い残した台詞は、降り始めた雨のように微かに冷たい。 「っ、ちくしょう」  ひとしきり頭を掻いた慈玄も、一旦元の席に戻るべく扉を開いた。  なにも彼だって、和宏に辛そうな顔をさせたかったわけではない。物怖じしないのは勇ましくて良いと思うが、相手を慮るあまり過度に信用してしまう危うさが、和宏にはある。  迦葉での慈斎や中峰に対するそれを見て、慈玄は痛感していた。だからこそと思いはしても、単純で不器用な彼は上手く言ってやれない。信じることで相手の懐を開かせるのができるのもまた和宏だと考えるが故、好きなようにさせてやりたくもあるのだが。  どうしたものかと腕組みしながら屋内に入り、ふと保健医が陣取っていた席に目を遣る。夢露の姿は、なかった。  既に帰ったのか、オーナーの美李と会うために奥へ行ったのか。どちらにせよ、この場にもう夢露がいないことに、慈玄は少々安堵した。自分が帰宅したあと、再度和宏に絡まれても困る。  ついでに光一郎の姿も窺ったが、こちらは幸せそうにサンドイッチを頬張っていた。鞍吉も、もうそこにはいない。 ── さっき和を呼びに来たちっこいのが、「別の仕事してる」とか言ってたか。  どうにか真面目に仕事もやっているようだ。鞍吉に対してはすっかり「保護者的」な心構えとなっていた彼は、素直に胸を撫で下ろした。 「しかし、ほんっとどうしたもんかなぁ」  和宏と口喧嘩状態になったのは、それでも気が重い。相手の言い分をきちんと理解しようとし、反発したままではいない和宏だから、そう長い期間ではないとは思われたが。 ── しゃーねぇ。言われたとおり家で待つ、か。  カップに残る冷め切ったコーヒーを流し込んで、立ち上がろうとしたとき。 「慈玄さん。あの、大丈夫ですか?」  愛らしい花の妖精が、小首を傾けて彼を覗き込んだ。

ともだちにシェアしよう!