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第五章 蠍ノ心臓(アンタレス)・11
◆◇◆
「上手くいっているようだな、光一郎先生と」
階段の上りさし、背後からぼそりと鞍吉に言葉が掛かる。
両脇を壁で挟まれている階段部には、もちろん他に誰もいない。どこかで別の者に聞こえたとしても、何を言っているかまでは判明しないだろう。
「え、えぇ。おかげさまで」
本当はその後色々あってそうでもないけど。嘘の下手な鞍吉の言外には、どうしてもそれが滲んでしまう。無頓着な人間ならば気付きもしない程度ではあっても。
「結構なことだ。しかし釈七がずいぶんお前を熱心に見ていたようだが?」
今度こそ、鞍吉の背はあからさまに跳ねる。
「厨房で作業しているときも、先生の相手をしているときも、ちらちらとお前の様子を窺っていた。あの釈七にはなかなか珍しい」
ククッと漏れる笑いが後ろで聞こえる。周囲がどうしてようと我関せず、しれっとコーヒーを啜っていただけに見えたこの男は、一体何をどこまで見ていたというのか。
「お……っ、俺が一番下っ端だから、じゃないんすか?あき……釈七、さん、新人には、丁寧に接するみたい、だし」
思わず鞍吉の足が速まる。ついてくる相手のことなど気にもかけず、一気に登り切った。
「そうかもな?とはいえ俺には、どうも今までと違うふうには見えたが」
二階には、美李の執務部屋と資材倉庫がある。短い通路の左側に倉庫、突き当たりが「控え室」という形だ。
駆け上がるくらいの勢いで鞍吉はいたのだが、背後の夢露はほとんど離れてはいなかった。最上段を登り切ったところで、後方に振った腕を掴まれる。引き寄せると鞍吉の身体をくるりと反転させ、壁に押しつけた。
「案内役としては失格だな鞍吉。相手の歩幅も考えてやらないと」
「……っ、よ、よく言うよ。追いついてたくせに」
辛うじての反論は、なんの効果もない。この体勢では次に何をされるかわからない。以前の、保健室での出来事のように。
なにか大声を出せば、奥の部屋の美李あたりが気付くかもしれない。だがそれも憚られる。力負けしそうならばいざ知らずと思うのもひとつ。あの日の記憶は過ぎっても、今はまだ腕を掴まれた以外、身体の他の部分に触れてさえいないのだし。
指一本滑らせるでもなかったが、夢露は鞍吉の耳元に唇を寄せた。階段を足早に上っても乱れ一つない吐息だけがかかる距離で。
「どうやら、お前の心境にも若干の変化があったか。釈七のことは、まだなにも知らないようだが?」
どくん、と鞍吉の鼓動が鳴る。密着しそうなほど近くにいても相手には聞こえはしないだろうが、それでも目線が泳ぐ。
「そ、そんなこと、は……」
「気にならないのか?釈七本人は、お前に言いづらいことを抱えているのに?」
刹那、鞍吉は息を止めた。
釈七自身が幾度か言いかけてはやめたこと、蓮達や司が口走った「慣れていない」という言葉、それらが急速に脳裏を巡る。彼等がそっと口を噤んだことを、無理に聞き出そうとは彼も思わない。だからといって、興味がないと言えば嘘になる。
「繋ぎ止める」と言ってくれた、心が追いつくまで待つと言ってくれた相手。自分もそれに応えようと、今よりもっと、好きになろうと決めた相手だ。
知らなくても構わない、などとは言えない。
「美李や蓮たちに訊くか?あいつらも口を濁すだろうな?俺なら、釈七のことも多少は知っている。助言くらいはできると思うが?」
閉じた口に溜まった唾を、鞍吉はごくりと飲み込む。
光一郎の手紙と同じ。それを知ったところで、自分にとって利になるとは決して思えない。あの痛い教訓を鞍吉とて無論忘れてはいない。
「ここでは聞きづらいか?なら、俺の家に招待しよう。もし気が向いたらいつでも来れば良い」
あと数センチで唇が触れるという近さで、夢露は囁いた。狼狽えていた鞍吉も、相手の濃赤色がかった瞳を真っ直ぐ睨んだ。
「わかり、ました。前みたいなことをしようとしても、同じ手は食いませんから」
「それは楽しみだ。俺も可愛がり甲斐がある」
夢露の視線には、意外にも悪意は見えない。あくまでも余裕を湛えた穏やかさで。
と、思いきや。
その視線が大きな掌で不意に遮られる。ぎり、と見据えていた鞍吉が拍子抜けするほど唐突に。
「夢露、お前何やってんだよ」
手を挟み込んだのは釈七だ。
サンドイッチを運んで戻って来た蓮に、厨房の仕事を恭か和宏に引き継ぐよう言付け、自分は発注のために資材倉庫へ行く途中だったらしい。
在庫数を確認し、不足分の注文をかけるのも彼の重要な仕事なのだ。加えて光一郎の席に鞍吉の姿がすでにないので、不審に思い彼を探す目的もあった。
「なに、って。鞍吉に美李の部屋へ案内してもらっていただけだ。スタッフルームに行くには、断りが要るだろう?」
「普段そんなこと一切しねぇくせに」
「なんだ、嫉妬か?お前がそんな感情持つなんてな」
笑う声を殺してはいるが、夢露はやけに楽しそうだ。反対に釈七の方は吐き捨てるように言う。
「お前が手当たり次第すぎるからだろうが。鞍」
壁と夢露の間から引き抜くようにして、肩に腕を伸ばし掴み、釈七は鞍吉を抱き寄せた。
「どうかしましたか?」
三者の掛け合いはさすがにやかましかったのか、「控え室」のドアが開いて美李が顔を覗かせる。
「おや、夢露。来ていたんですね」
「あぁ、相変わらず面白いな、ここは」
くすくすと笑う保健医は、本当にただ無邪気に人をからかって遊んでいるようにしか見えない。自分が仕掛けることで見せる相手の反応に、興味津々といった体で。
「仲が良いようだな、あの二人」
鞍吉たちを顎で示し、美李に言う。言われた方も澄ましたもので
「えぇ。ここのスタッフは皆仲が良いので、私も色々と安心ですよ」
そんな掴み所のない返答をする。釈七だけが、眉をひそめて大きく溜息を吐いた。
散々楽しんだと言わんばかりに、夢露は気楽な調子で片手を振った。
「それじゃ、また、な。鞍吉」
美李は特に招客の言葉を投げなかったが、当たり前のように夢露も一緒に扉の向こうへと消えた。通常ならば「案内」の必要もなくそうしているはずだった。
肩の手を解いた釈七は、やや焦れ込んだ様子で鞍吉を質す。
「お前、夢露と知り合いだったのか」
「知り合い、ってほどじゃないけど。前に、一度」
何と説明したら良いのか迷い、鞍吉は口ごもった。光一郎を迎えに行って辱めを受けかけたなんて、この同居人に今言えば美李の部屋へ怒鳴り込みかねない。
「まぁ、詮索はしねぇけど。光一郎や司はともかく、あいつに関わるのは反対だからな、俺」
珍しくも語気強く、釈七は咎めた。光一郎と鞍吉に「美李の知り合いだ」と告げた時、彼の口調に敵意は感じられなかったのだが。
きっぱり「関わるな」と明言されたのを、鞍吉は少々訝しく思う。
「べっ、別にそーゆんじゃない、から」
そもそも夢露は、和宏のことを気に入っているのだと彼は思っている。だったら自分は、面白半分に冷やかされているだけだと。先刻のフロアでの騒動は、釈七も目にしている。ならば自分と同意ではないのかと、鞍吉は考えた。
「てか、光一郎や司はともかく、って」
「ん、あの二人には勝てそうだからな」
ようやく釈七が微笑を見せた。だがすぐに真顔に戻り。
「でも、マジで夢露は危ないから。あまり近づくなよ?」
そこまで言われては、鞍吉も神妙に頷くしかない。
にしても。
「危ない」とはどういう意味なのだろうか。どこか素性の判らない雰囲気は大いにまとっていても、学校の養護教諭、という職業はそれなりに堅い。
慈玄や稲城が「人ではない」と言われても、どういう「モノ」かもいまだ計り知れずにいる鞍吉だ。仮に夢露が同様であると聞いたとしても、やはり俄には信じられない。
釈七のことは自分は多少知っている、と夢露は言った。ならば、その逆も然りではなかろうか。釈七も何かしら、夢露の「秘密」を知っているのでは。
「もし、なにかあったら俺が守ってやる。だから俺の手から離れんな、いいな?」
追い打ちをかけるように、鞍吉の目をじっと見て釈七は忠告した。あまりの真剣さに、鞍吉の心拍が速まる。彼等どちらの「正体」も、見極められない己がもどかしく。
「う、うん……」
「よし、じゃあ厨房の方また頼む。和宏を先に上げるから代わってやってくれ」
脅しが効いたと感じたのか、釈七は優しく鞍吉の頭を撫でた。
「俺がこっち片付けたら、一緒に上がって帰ろう。な?」
この頼もしい相手が、共にいてくれることが鞍吉には心強い。しかし夢露が、ひっそりとそこに不安の種を埋め込んだ。突き当たりのドアに、彼はもう一度目を遣る。
── 自分の知らない釈七を、保健医は知っている。
取り除くのもままならないうちに、種は鞍吉の裡に静かに根を張り、芽を出していた。
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