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第五章 蠍ノ心臓(アンタレス)・12
◇◆◇
「恭ちゃん」
はにかむように、ツインテールの少女が慈玄に笑いかける。
大降り、とまではいかないまでも、雨脚は次第に強くなっていた。入れ替わり立ち替わりで常に埋まっていたフロアの客席も、天候のせいか空きが目立ち始めている。
「あー、さっきは悪ぃな。なんか、みっともねぇところ見せちまって」
「いいえ。和君人気者だから、いろんな人に捕まっちゃうし」
雨雲の切れ間から陽の射し込むような笑顔に、ささくれた感情が癒されるのを慈玄は感じる。和宏の気持ちを思えば、少々軽率だと思いはしても。
先刻の口論に、さりげなく間を割って治めてくれたのも彼女だ。柔らかな物腰ではあっても、ああいう場面で怯まず入って来られるのは、この娘が言動とは裏腹に存外毅然とした一面を持っていることを物語っている。
「ふふ。でも私、ちょっとだけ和君が羨ましいと思っちゃいました」
「……は?」
「だって、心配だからつい口出ししちゃったんですよね?慈玄さんみたいな頼りがいある大人の男の人に守られるなんて、いいなぁって」
むしろ和宏には、逆に護られているとさえ思う瞬間もある慈玄である。それをこんなふうに見られていたとは、どうにもばつが悪い。
反面、深い含意などないと判っていても、「頼りがいのある大人」と評されては、当然悪い気などするはずもなく。
「は、はは。い、いやぁ……別に和じゃなくったって、絡まれて困っているようなら勿論恭ちゃんだって助けるさ」
返す笑みは、ついついだらしのないものになる。
ハッチの奥からそんな様子をちらりと目にして、和宏は呆れたように嘆息していた。
慈玄に他意があるとは和宏も思ってはいない。が、恭が彼を過剰に美化して見ているらしいのには、少なからずやきもきする。ましてや、自分は今し方の口論で気まずい雰囲気になったばかりだ。八つ当たり半分と自覚はしていても、恭に相好を崩しっぱなしの慈玄の態度がどうしても腹立たしく思えてしまう。
ドアの開く微かな音で、和宏は我に返った。
入ってきたのは、無言でややぼんやりしているような鞍吉。こちらも和宏に声を掛けられ、ビクッと顔を上げると、自我を取り戻したらしく。
「あ。和、悪い、ここ代わる。お前は……しゃ、くなさんが先に上がっていいって」
釈七の名を口にするのに、一拍間があったのを和宏は奇妙に思いながらも
「え、うん、わかった。じゃあ、あと頼むな?」
強ばった表情の「兄」に、何事もないような明朗さで言った。
「あの、帰るとこ、だったんですよね?引き止めてごめんなさい」
相手が立ち上がりかけていたのを思い出したのか、恭が肩を竦めて詫びる。
「いやぁ、とんでもねぇ。恭ちゃんのお陰で俺もだいぶ気が紛れた」
「気が?少しでも慈玄さんのお役に立てたなら、私も嬉しいです」
恭が自分に好意を懐いてくれているのは、慈玄も気が付いている。だが到底、「恋慕」と呼ぶには程遠いだろう。和宏以上に、彼女は恋愛の機微には疎い。
「親から決められた許嫁」などという時代錯誤甚だしいものを、すんなり受け止め同世代の男と同居するくらいだ。元々相当な箱入りなのだと推測はつく。
相手がよほど人間ができているのか、肝心な所で意気地がないのかは定かでないが、とにかくキス一つまともにしていないらしいのも遠因と思われた。
恭もおそらく、同棲相手のことは好きなのだろう。しかしその「好き」が、「己の伴侶となる相手」にまで到達していないことは、時々溢す話の内容からして明白だった。
優しい大人の男性に対する憧れはあると見える。が、その淡い想いを過度に育んでしまうような真似はすべきではない。慈玄にもそれくらいの理性はあった。
「あら慈玄、お帰り?」
二人の傍を、もう一人の看板娘が通る。
和宏と知り合って後、カフェにはちょくちょく顔を出すようになった慈玄だから、彼女とも知らない仲ではない。
「なんか、争奪劇があったようね。和宏の取り合いなら、私も混ぜて欲しかったわ」
聞けば彼女……テイラは、その間丁度休憩中だったのだという。明らかに冗談交じりだが、テイラがその場にいたら恭とは違う形の茶々が入ったはずだ。
「そういえば和宏も上がるようだけど、一緒に帰るの?」
「ん?い、いや……」
思わず慈玄は否定する。なにせ「先に帰れ」と言われていたのだし。
恭と話していたからタイミングが掴めなかったのかもしれないが、まだフロアに彼がいるのを承知で和宏が一緒に帰ろうと言って来ないということは、当分そんな気分になれないでいると察せられた。
「そう。あ、そうだ恭、あなた慈玄に送ってもらいなさいな」
「えっ?!てっ、テイラちゃん!だって、私まだ仕事……」
「代わるわ。私も上がって良いって言われたんだけど、髪が雨に濡れるの嫌だもの」
高慢なようでいて、テイラは非常に気の利く娘だ。お節介の域になってしまうこともあるが、どうやら同僚の箱入りを気遣っているらしい。
「あなた伸くらいにしか免疫ないんだから、この際色々経験しときなさい」
伸、というのが恭の許嫁の名だが……こそっと耳打ちをする。
恭は真っ赤になって俯いたが、女の子同士の内緒話など聞こえない慈玄は、不思議そうに彼女たちを見遣るだけだった。
折も折、間が悪いというべきか、着替えを済ませた和宏がフロアへ回ってきた。
「お前、まだいたのかよ」
厨房から見て慈玄の姿があるのは当然知っていたから、この言葉はいわば照れ隠しだ。
大声を出された恥ずかしさでついきつい物言いになってしまったが、少し言い過ぎたのではないかと反省もしていた。
こちらに来ずとも従業員はロッカールーム付近の通用口から外に出られたが、そういう理由で敢えて客席に足を向けたのだった。
「お、俺の方が先に仕事上がりになっちゃったじゃん。仕方ないから、その、一緒に帰っても……」
「あの、私ならいいですよ?」
ほっとしたような残念そうな、遠慮がちな微笑で恭が言う。
「いい、って?」
「なによ、結局そうなるんじゃない」
けしかけたテイラは、つまらなそうに口を尖らせた。
「へっ?あああ、あの、いや、これはっ!」
慈玄がおろおろと、和宏と恭の顔の間で視線を迷わせる。
「せっかく送ってもらえるところだったのにねぇ?」
「テイラちゃん!そ、そんな風に言ったら、慈玄さんだって迷惑じゃ」
恭も慌てて、テイラの口を押さえようとしたところ。
「……ふぅん?」
一瞬上目遣いに睨んだものの、和宏はどこか諦めた様子で溜息を吐いた。
「そういうことならいいよ、俺は先に一人で帰ってるから」
「ちょ、和?!」
「雨もかなり振ってきたし。恭さんちゃんと家まで送ってやれよ、慈玄」
言い訳ひとつ出て来ない慈玄は、己の情けなさに片手で顔を覆った。
「それじゃ、私は仕事に戻るわね」
引っ掻き回すだけ回して、テイラはスカートを翻し、さっさとその場から立ち去る。自分がしたお膳立てがどうにか無駄にならなかったので、満足したようだ。
同居人、という以上、テイラも恭もよもや慈玄と和宏が恋仲のような関係にあるなど思いも寄らない。否、テイラの方は多少勘づくことがあるのかもしれないが、自身の恋愛にも鈍い恭は別だ。彼女の認識は「仲良しな家族」くらいのものでしかないだろう。
男二人の間に沸き起こった微妙な空気を、女性たちは気付けなかった。無論、慈玄はともかく和宏は感じさせようともしなかったのだが。
「あ、恭さん。多分大丈夫だと思いますけど、こいつが調子に乗ったら怒っていいですからね?」
「うん?」
追い打ちをかける如く、そんなことまで付け加える。先程のことも引きずって、慈玄はまた若干意地になった。
「慈斎やさっきの保健医じゃあるまいし、俺はんな軟派じゃねぇっての。んじゃ恭ちゃん、表で待ってっからな?」
「待ってっから」を殊更愛想良く、恭に向け告げる。
嬉しげに彼女は頷いたが、和宏は憮然とし、黙って出口へと背を向けた。
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