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第五章 蠍ノ心臓(アンタレス)・14

◇◆◇  目的のビジネスホテルは、駅のほど近く。商店街とは逆方向の沿線を辿った場所にあった。  並ぶ店舗はコンビニと、昔ながらのバーや居酒屋のみ。日が暮れれば、和宏の父親世代以上の人間しか見掛けなくなりそうな場所だ。決して新しいとは言えない薄汚れたコンクリートのビルは、灰色の雨に上部が溶け込んでいる。それこそ、異界に繋がってでもいるように。  来てはみたものの、和宏は次の行動を逡巡する。いるわけがないと思いはしても、フロントで「名前」を出して訊ねてみようか、それとも大人しく引き返そうか。  もしかしたら「せのを荘」と同様に、天狗たちの素性を知る妖か元妖が経営しているのかもしれない。だとすれば慈玄のことでも出せば、話は通じるのではないだろうか。そう考えた和宏は、ふっと息を吐いてエントランスに踏み込んだ。  ロビーと呼べるような広さはない。受付の前は、畳二畳分ほどしか開けていなかった。一人がけの椅子と、円柱型の灰皿が置かれている。奥、といっても数歩進めばどん詰まりになったが、そこには飲料の自動販売機があり、右側に折れるとエレベーター、更に階段へと繋がる。  フロントカウンターの向こうで新聞に目を落としていた老人が、きょろきょろと中を窺う少年を不審に思ったのか顔を上げた。眼鏡をずらすと、この場にはどうにも不釣り合いな高校生の和宏をじろじろと眇める。 「何か、ご用でしょうか?」 「……っ、あ、すみません。あの」  天狗たちに姓は無い。必要な時は、比較的ありきたりな名字を名乗る。  慈玄も田中だか田所だか、そんなような姓を一応つけていたが、檀家は寺の号か「住職」と呼ぶし、周囲の人間も「慈玄」としか呼ばないので和宏でさえも覚えていない。  宿帳に記すときも仮名を使う。ホテルの住所と一緒に彼のそれも教わった和宏は、恐る恐る受付の老人に告げてみた。 「ん?えぇ、っと、そのお客様は、確か」  どさりと重そうな顧客ファイルを開いた老人は、指を舐めてページを捲る。パソコンでの管理はここでは無縁だと言わんばかりに。 「あぁ、あった。毎回数泊してるんだが……」  ビニール傘が閉じ、観音開きのガラス扉の前で振られ、雫を落とした。雨を厭うように一人の男が、急ぎ屋内に滑り込む。 「すみませんー、502号室ですけど、鍵を……」  窓口のカウンターに肘を置き、彼は預けた部屋のキーを要求した。  その声に、和宏は驚愕して眼を見開く。そろそろと視線を上げれば、飛び込んだのは思ったとおりの茶色の短髪。 「慈斎」  名を呼ばれた慈斎は、きょとんと真横に顔を向けた。 「和……え?どうしたの?」 「あぁ、やはりあんたさんの知り合いか。はいよ」  細長いプラスチックの棒がついた鍵をカウンターに出すと、興味を失ったというように老人は再び新聞を開いた。 「来て、たの?」  慈斎は頬を指で掻く。少々気まずげに。 「んー、昨日ね。まだそんなに身動きとれる感じじゃないからさ、和や慈玄には会わずにいようと思ったんだけど」  なんで、と問おうとして和宏はやめた。「身動きが取れない」ということは、慈斎がこの姿でいる時間は、迦葉で会った時から大して延びていないと考慮したからだ。  ホテルならば、自室に戻れば誰の目もない。事実、慈斎は休息時「本来の姿」に戻っていた。妖力を多少なりとも温存するためである。和宏等に会えば、その合間を確保するのは困難だろうと踏んだ。慈玄とは間違っても良好な関係とは言えないし、和宏にもひ弱な小動物の形となった己を彼は見せたくなかった。 「そっか。ごめん、それなのに押しかけて」 「押しかけ、っていうかさ、俺がここにいること和は知らなかったんでしょ?来てみれば会えると思った?」  笑いながら指摘され、和宏は顔を赤く染めた。いるはずがないと思った相手が眼前に現れて、そんな前提はまるきり吹き飛んでしまっていた。 「いいよ、山で会った時より徐々に人型を保てるようにはなってきたし。こういうホテルだから狭い部屋だけど、ちょっと寄ってく?」 「う、うん!」  慈斎は先に立つと、自販機の前に止まった。コインを入れペットボトルのカフェオレのボタンを押す。 「こんなものしか出せないけどね」  取り出し口に落ちたカフェオレを和宏に投げ寄越すと、その足でエレベーターへ向かう。  ホット用ペットボトルの温もりを両手で包み、和宏は後を追った。二人して小さな箱に乗り込む。ガタン、と振動してエレベーターは上昇した。 「慈斎、ほんとに大丈夫、なの?」  薄暗いエレベーターの中。長身の横顔を、和宏はちらりと盗み見る。彼の表情は、再会前となんら変化はない。あの人懐こそうな笑顔で特別愛想良くしているのではないが、かといって沈鬱でも真摯でもなく。 「まぁ、ね。まだ全快には程遠いかな、ってとこ。飛ぶのもままならないし」  身体が思うようでないのは、それなりに苦痛だろう。しかし和宏に心配をかけさせないためか、彼自身の虚勢からか、慈斎は淡々とした姿勢だ。 「ここまで来るのに、ひっさしぶりに電車なんか乗っちゃったよ。いやぁ、なかなかめんどくさいもんだねぇ」  くすっと含み笑いするところを見ると、口で言うほど不便とは思っていないらしいが。 「でも、万全じゃないのに来たってことは、やっぱり気になるから、でしょ?」 「んー、じっとしてるものあんまり性に合わないし。山にいたら、中峰にどんな嫌がらせされるか分かったもんじゃないしさぁ」 「え、嫌がらせされたの?」  不安げに和宏が問い詰める。回復途中の慈斎に中峰がなにか手を下すなら、それはルール違反だと彼は思った。焦燥した和宏をよそに、慈斎の顔には次第に笑みが増えていった。 「あはは、例えば、の話だよ。放置されっぱなしなのもそれはそれで不気味だけどね。一応慈海も目を光らせてるようだし」  ほっと胸を撫で下ろす和宏。そうこうしているうちに、チン、と古風な音がしてエレベーターの扉が開いた。 「どうぞ。適当に座って?」  招き入れられた個室は六畳ほど。セミダブルのベッドとデスクと椅子、それだけで床面積がほぼ埋まっている。典型的な簡易ホテルの部屋だ。  ちょんと和宏は、少し寸足らずに見えるベッドの端に腰掛ける。外観の印象通り調度品はどれも年代を感じさせるが、古い割に小綺麗になっている。 「ここも、慈斎たちの知り合いがやってるの?」  若干疑問に思っていたことを和宏は口にした。曖昧な言い方になったが、慈斎はその意味を正確に理解できた。 「うぅん?持ち主もフロントのおじさんも普通の人間。ただものすごい穴場でね、立地条件の割に宿代も安いし、融通も利く。元は逢い引き宿か何かだったのかもね?」 「あい、びき?」  慈斎が飛ばした冗談の意味が、和宏には伝わらなかったようだ。「まぁいいや」と笑い流して、自分は椅子に座った。 「それで。和はなんでまたこんな雨の日にここに来たのさ」  至極もっともな質問だが、和宏は口ごもる。 「それ、は……」 「ははぁ、慈玄と喧嘩でもした?」  机に頬杖をついた慈斎に図星を突かれた。返事は出来なくても、身を縮こまらせた格好が肯定を明白に表している。 「そういうことなら、いつでも来てくれていいけどね?」

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